S盤アワー

S盤アワー(エスばん・アワー)は日本文化放送協会(現・文化放送)1952年4月の開局当時から1969年11月深夜放送された音楽の番組である。

S盤について

S盤とは、日本ビクターの音楽レコード事業部(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のSP盤洋楽レコードレーベルの略称[1]で、当時発売された洋楽の新譜を帆足まり子(当時は日本ビクターの社員、放送途中で退社してフリー)のディスクジョッキーで紹介するというものであった。

概要

オープニング曲はペレス・プラード楽団の「エル・マンボ」、エンディング曲はラルフ・フラナガン楽団の「唄う風」である。冒頭のあいさつは「犬のマークでおなじみの日本ビクターがお送りする、ニュースタイルの軽音楽プロ、"S盤アワー"の時間がやってまいりました」[2]
放送開始当初は15分番組であったが、1952年7月放送分より20分番組に拡大され、さらに同年11月放送分より30分番組に再び拡大された[3]
番組収録は四谷の文化放送旧社屋ではなく、東京・築地聖路加病院前にあったビクター築地スタジオで行われていた[4]。(同じ日本ビクター提供のラジオ番組「ビクターアワー」、「ワンワン・タイム」も同様)。
また、放送で使われている音源はレコード盤ではなく、RCAから空輸されたカッティング用のマスターテープを使用しており、ノイズもない生演奏に近い雰囲気を心がけている[4]

スタッフ

プロデューサー:小藤武門(中原ひろと)

エピソード

  • 日本ビクターのプロデューサーである小藤武門が最初に企画をラジオ東京に持ち込んだが断られたため、文化放送に持ち込んで採用された経緯がある[5]
  • 番組立ち上げの段階でビクターの別の関係者がビクターの専属歌手としてデビューしたばかりの宮城まり子をディスクジョッキーとして推薦した。宮城本人もやる気満々であったが、「歌手である彼女にそんな事をさせるなんて如何なものか?」「歌手とディスクジョッキーなんて、両立できるはずがない」とビクターの社内からの懸念の声が挙がった為、プロデューサーである小藤が当時、入社3年目のビクター社員で”まりこ”繋がりの帆足まり子を推薦した。ちなみに彼女がナレーターを務めたビクター製品の宣伝コマーシャルのテープを聞いて「これだ!」と起用を決めたとのこと[6]

関連項目

  • JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント
  • ビクター・アワー - ラジオ東京(現・TBSラジオ)ほか全国16局ネットで放送された日本ビクター提供のラジオ番組。こちらはビクターの邦楽レコードを紹介すると言う内容であった。
  • ワンワン・タイム - ラジオ東京(現・TBSラジオ)ほか全国3局ネットにて放送された日本ビクター提供の子供向けラジオ番組。こちらはビクターからリリースされた童謡などの子供向けレコードを紹介すると言うもの。ディスクジョッキーは当時、ビクターの童謡歌手であった古賀さと子が担当。タイトルはビクターのシンボルマークである犬「ニッパー」に由来する。
  • L盤アワー
  • P盤アワー

出典

  • なつかしのS盤アワー
  • 小藤武門「S盤アワー わが青春のポップス」(1982年9月20日発行、アドパックセンター)

脚注

  1. なお、45回転EP盤(ドーナツ盤)では「SS盤」と呼ばれていた。
  2. 放送開始当初は挨拶の前に犬が吠える声が流れていた。その録音には丸一日を要したと言う。小藤武門「S盤アワー わが青春のポップス」(1982年、アドパックセンター)66ページ参照。
  3. 「ミュージックライフ」(シンコーミュージック、1955年8月号)14~15ページ参照。
  4. 「ミュージックライフ」(シンコーミュージック、1955年8月号)15~16ページ参照。
  5. 第5スタジオは礼拝堂 第44章「S盤アワーの青い鳥は近くにいた」- 文化放送開局物語 文化放送公式サイト
  6. 「S盤アワーニュース・100週記念号」(1954年5月25日発行、日本ビクター株式会社宣伝部)および「ミュージックライフ」(シンコーミュージック、1957年9月号)40ページ参照。
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