黙子如定
黙子如定(もくす にょじょう、1597年(万暦25年) - 1657年(明暦3年))は、明末清初に来日した中国僧。江西省南康府建昌県の出身。
黙子如定 | |
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1597年 - 1657年 | |
生地 | 江西省南康府建昌県 |
宗派 | 禅宗 |
寺院 | 興福禅院、興福寺 |
弟子 | 逸然性融 |
生涯
揚州にある興福禅院において出家。
1632年(寛永9年)に来日し、長崎の興福寺に入寺した。明版の大蔵経を持参していた。真円の没後に第2代の住持となった。一説には、1635年(寛永12年)、真円の隠退によって継席したともいう。
1634年(寛永11年)には、眼鏡橋の建設指導にあたったともされる。同様に、象嵌技術などにも通じており、中国の先進技術の導入に一役買った。また、能書家でもある。
その後は、興福寺の諸堂の造立に尽力した。
1645年(正保2年)、逸然性融に法席を譲り、東盧庵に隠退するも、逸然が傾注した隠元隆琦の招致運動を援助した。
1657年(明暦3年)12月、自坊で没した。享年61。
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