高野弘正

高野 弘正(たかの ひろまさ、1900年明治33年) - 1987年昭和62年))は、日本剣道家称号剣道範士一刀流中西派(または小野派一刀流中西派)宗家

たかの ひろまさ
高野 弘正
生誕1900年
東京府
死没1987年
国籍日本の旗 日本
別名甲子郎(かしお)
出身校東京高等師範学校体育科
肩書き剣道範士
一刀流中西派宗家
親戚高野佐吉郎(曽祖父)
高野佐三郎(父)
高野茂義(義兄)
高野泰正(実兄)

経歴

小野派一刀流の剣道家高野佐三郎の次男として東京に生まれる。6歳より父の道場明信館で剣術を修行し、後に小野派一刀流を継承する。小野派一刀流の中西子定から数えて8代目にあたる。

1918年(大正7年)、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・日本大学第一高等学校)を卒業。1923年大正12年)、東京高等師範学校体育科を卒業。1926年(大正15年)、大日本武徳会から精錬証を授与される。

昭和に入り、早稲田大学に奉職する一方、修道学院を運営、さらに劇団を作って主演もした[1]

人物・エピソード

演劇が好きであちこちの劇場を見て回り、これが昂じて劇団を作って主演した。

小説『大菩薩峠』を著した中里介山は、澤田正二郎が舞台でこれを演じる際に、主人公机竜之助の「秘剣音無しの構え」を高野に考案してもらった。高野の構えに惚れ込んだ中里は、この作品が1935年(昭和10年)に映画『大菩薩峠』として制作される際に、日活に「高野を机竜之助役に」とねじ込んで譲らなかった。結局、監督の稲垣浩が説得して断念させて、「剣道指導」という形で参加してもらっている。

稲垣によると、「このころ(昭和10年)の若先生(高野)の蛮勇ぶりは、どの学校の暴れん坊も町のやくざも恐れをなした」ほどで、「まことに遠山の金さんをそのままの、怖いもの知らずの若先生だった」と語っている[2]

映画指導

著書

  • 『兵法一刀流』

親族

脚注

  1. 稲垣浩『日本映画の若き日々』、毎日新聞社
  2. 稲垣浩『日本映画の若き日々』、毎日新聞社刊

参考文献

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