THE ALPHA
THE ALPHA(ジ・アルファ)は日本のロックバンド。1989年4月解散。
THE ALPHA | |
---|---|
別名 |
|
出身地 | 日本 |
ジャンル |
ロック AOR デジタルロック ファンク フュージョン |
活動期間 | 1982年 - 1989年 |
レーベル |
|
事務所 | ヤマハ音楽振興会 |
共同作業者 | |
メンバー | |
旧メンバー | 小森田実(ボーカル・キーボード) |
メンバー
人名 | 生年月日 | 出身地 | 血液型 | 担当 | 愛称 |
---|---|---|---|---|---|
村上啓介 (むらかみ けいすけ) |
1955年7月3日(67歳) | 熊本県上益城郡益城町 | B型 | リーダー | 啓介さん |
後藤郁美 (ごとう いくみ) |
1954年8月16日(68歳) | 大分県別府市 | B型 | ボーカル・ピアノ | ゴッツァン、あいくる |
佐藤邦治 (さとう くにはる) |
1959年2月24日(64歳) | 熊本県熊本市 | A型 | ドラム・コーラス | サツク |
高浜輝夫 (たかはま てるお) |
1958年4月27日(65歳) | 熊本県葦北郡芦北町 | B型 | ベース | トツ |
矢賀部竜成 (やかべ たつなり) |
1957年1月1日(66歳) | 熊本県上天草市 | A型 | シンセサイザー・マニピュレーター | やーさん |
来歴
デビューまで
また、この時ヤマハ関連が開催する音楽コンテストである「L-MOTIONグランプリ大会」などに参加しており、熊本の大谷楽器地下にかつて存在したペパーランドなどで頻繁にライブを行っていた。
- 福岡のヤマハセンターにて『ヤマハポピュラーソングコンテスト』の常連で、九州地区のライバルだった小森田実と知り合い、ALPHA & 後藤郁美 & 小森田実として『第24回ヤマハポピュラーソングコンテスト』に「ドキドキTalking」出場し、入賞を獲得した[1]。
デビュー
- 1983年、後藤郁美が正式加入し、5月15日に行われた『第25回ヤマハポピュラーソングコンテスト』で小森田実 & ALPHAとして「フォリナー」で出場し、グランプリを獲得[2][注 2]
- 7月11日に六本木ナバーナにてデビューコンベーションを行い、7月13日にデビューシングルとして「フォリナー」がフィリップス・レコードからリリースされた。
- 1984年、10月に小森田実が脱退。同12月にチャゲ&飛鳥のサポート開始[注 3][3]
- 1985年、メルダックに移籍と同時に、The ALPHAと改名。11月にシングル「夢じかけロマンス」をリリースした。
- 1987年、1月にチャゲ&飛鳥のサポート解消。The ALPHA Projectとしての個人活動開始。その後、他ミュージシャンのサポート等の期間を経る
- 1989年4月11日に日清パワーステーションにて行われたライブを最後に解散。
ディスコグラフィー
シングル
# | 発売日 | タイトル | B面 | 規格 | 規格品番 |
---|---|---|---|---|---|
フィリップス・レコード 小森田実 & ALPHA 名義 | |||||
1st | 1983年7月13日 | フォリナー | ローマの平日 | EP | 7PL-126 |
2nd | 1983年12月20日 | Moon light dance | サザントレイン | EP | 7PL-137 |
メルダック The ALPHA 名義 | |||||
3rd | 1985年11月21日 | 夢じかけロマンス | 3度目のカサブランカ | EP | 7MEA-2 |
4th | 1986年5月21日 | Sensation (Special Remix) | MIRAGE UTOPIA |
12inch | MEAR-1 |
5th | 1986年7月21日 | 水のナイフ | WHY STILL LOVE (Instrumental) | EP | 7MEA-7 |
6th | 1987年4月21日 | 夏を待てずに | Rāmā Yana (Instrumental) | EP | 7MEA-14 |
オリジナル・アルバム
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 | |
---|---|---|---|---|
メルダック The ALPHA 名義 | ||||
1st | 1985年12月21日 | SENSATION | LP | MEL-2 |
CT | MEC-2 | |||
1986年1月21日 | CD | MED-2 |
ミニ・アルバム
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 | |
---|---|---|---|---|
メルダック The ALPHA 名義 | ||||
1st | 1986年9月21日 | 閃 SEN | LP | 20ML-1 |
2nd | 1986年11月16日 | 凛 RIN | LP | 220ML-3 |
コンピレーション・アルバム
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 | |
---|---|---|---|---|
メルダック The ALPHA 名義 | ||||
1st | 1986年11月16日 | 閃の夢、凛の愛 | CD | MED-14 |
未発売曲
- 『lyrical(リリカル)』・・・taka-QCMソング1988年頃
- 『BELIEVE』『Bon Voyage』・・・MULTI MAXのファーストアルバム「HEVEN」の収録曲となっており、MULTI MAXでのライブでも披露されている。
当時の音楽業界からの評価
- 安全地帯と同じAORという音楽ジャンルだったこと・メンバー構成が5人ということやデビュー経緯が似ていることもあり、「ポスト安全地帯」・「九州出身の安全地帯」と評されていた。また、当時チーフマネージャーであった渡邉徹二(当時のALPHAがバックバンドを務めていたCHAGE and ASKAのチーフマネージャーでもある。)も意識していたと語っている。[注 5][4]
- 1986年当時、同じデジタルロック・ファンクの音楽ジャンルであった、まだブレイク前のTM NETWORKのライバルとされ、将来性のあるバンドと音楽関係者から評されていた[4]。
- 上記の2つに伴い、「スタイリッシュで都会的な大人のデジタルサウンド」を売りにしていた。
- 演奏力について高評価されており、パワフルでタイトな演奏をアピールポイントとしていた。NSP平賀和人からも「技巧派グループ」[5]と称されており、1984年1月にゲスト出演した谷山浩子のオールナイトニッポンにて、ALPHAの演奏を聴いた谷山浩子からも「凄い!なんでそんなに上手いの?」と絶賛していた。このためバックバンドを務めたCHAGE and ASKA以外のヤマハ系アーティストのバックバンドやスタジオミュージシャンとしての活動も度々行っていた。更に、1986年12月3日の夜のヒットスタジオにて、田原俊彦のバックバンドを務めたこともあった。[6]特に村上啓介のエレキギターについては評価されていた。
- また、コーラスもでき、これが決め手となりCHAGEandASKAのバックバンドに決定された。
バックバンド歴
前述の通り数多くのヤマハ系アーティストを中心としたバックバンドやスタジオミュージシャンを担当していた。
- 1984年:NSP 中村貴之 ソロライブ
- 1984年10月~1987年1月:CHAGE and ASKA
エピソード
- ALPHAというバンド名はアマチュア時代フュージョン系の曲を演奏していたこともあり、その流行りに便乗する形で仮名で付けられた。更に、仮名で付けた後の、宮崎のライブハウスでライブが行われた際に、観覧に来ていた当時ALPHAを気に入っていたマスターの店が「ALPHA」だったことから正式のバンド名となった。名付け親は矢賀部竜成である[7]
- THE ALFEEと名前が似てることもあり、間違われることがあり、当時の新聞テレビ欄ザ・ベストテンにて、「ALFEE」が出演予定のところを「ALPHA」と誤表記されたことがあった[8]
- ALPHA初期の頃同じ九州出身でヤマハ振興会関連のミュージシャンである「クリスタルキング」、「世良公則&ツイスト(メンバーであるふとがね金太が九州出身のため)」、「長渕剛」、「CHAGE and ASKA」と合同合宿を行っていた[9]
- 1983年8月~1983年12月の間、中野新橋のスタジオ付き一軒家にて合宿生活を行っていたが、野村義男の父が当時経営していた「野村モーターズ」が目の前にあった[10]後にALPHA解散後の1989年11月4日放送の「ヒットスタジオR&N」にて、野村義男は「THE GOOD-BYE」のメンバーとして、村上啓介は「MULTI MAX」のメンバーとして共演することとなった。
- 「音楽をやっていなかったら今頃何をやっていたか?」の質問に対し、小森田「コピーライター」・村上「商業デザイナー」・矢賀部「プロマージャン、プロボーラー」・高浜「釣り紀行」・後藤「TVでの悪役」と回答している。
脚注
注釈
- ネットワークのメンバーであった佐藤邦治、高浜輝夫、村上啓介に矢賀部竜成が合流する形で結成された。前身のネットワークはゲド戦記などの映画音楽を担当することとなる寺嶋民哉もメンバーだった。
- この時同じ九州出身のチャゲ&飛鳥やクリスタルキングも応援に駆けつけた
- 脱退正式発表は1985年3月
- また、MULTI MAXのチーフマネージャーもALPHAのチーフマネージャーであった渡邉徹二やマネージャーであった中野努が務めていた(両者ともにCHAGE and ASKAのチーフマネージャー・マネージャーでもあった)
- 安全地帯は井上陽水のバックバンドからのデビューであった。
- 田原俊彦の歌唱曲は、Bon Jovi「禁じられた愛 (ボン・ジョヴィの曲)」のカバー
- 野田幹子の歌唱曲は、「太陽・神様・少年」
出典
- “第24回 ポピュラーソングコンテスト”. ヤマハ音楽振興会. 2021年9月8日閲覧。
- “第25回 ポピュラーソングコンテスト”. ヤマハ音楽振興会. 2021年9月8日閲覧。
- 1985年4月のヤマハ振興会事務所会報誌「ヤマハミュージックシティ」より
- 「10年の複雑 PRIDE:チャゲ&アスカプロジェクト」著書
- 平賀和人 (2020年4月30日). “1984年のNSP”. NSP平賀くんの時々ハンサム日記. 2023年4月15日閲覧。
- 夜のヒットスタジオ. “田原俊彦データパーク 夜のヒットスタジオ 86”. 田原俊彦データパーク 夜のヒットスタジオ 86. 2023年5月25日閲覧。
- 1984年当時のヤマハ振興会事務所会報誌「ヤマハミュージックシティ」より
- 1986年当時の谷山浩子のオールナイトニッポンより
- とあるソロライブ時にて村上啓介談
- 1983・1986年当時のヤマハ振興会事務所会報誌「ヤマハミュージックシティ」より
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.