高岳 (北斉)

高 岳(こう がく、512年 - 555年)は、中国北斉皇族。清河王。は洪略。本貫渤海郡蓨県高歓の従弟にあたる。

経歴

父は高翻(高謐の子)、母は山氏。早くに父を亡くし、洛陽で母と貧窮の中に暮らしていた。高歓が洛陽へ立ち寄る際には、高岳の家に宿泊したという。

高歓が挙兵するとこれに従い散騎常侍となり、武将として功績を上げた。太昌初年(532年)には車騎将軍、清河郡公に封ぜられ、天平2年(535年)に侍中、のち京畿大都督となった。武定5年(547年)の高歓の死後、侯景を討伐して太尉に任ぜられた。高澄の下で、孫騰高隆之司馬子如と共に四貴と称されている。武定6年(548年)に西魏を攻め、王思政を捕らえた。北斉が建てられると清河郡王に封じられ、天保5年(554年)に太保となる。

功績は大きかったが酒色を好み、これを理由に文宣帝に疎んじられて、毒酒での自殺を命じられて死んだ。平秦王高帰彦が幼い頃、(高歓の依頼で)高岳に一時引き取られていたが、家では粗略に扱われたので常々それを恨んでいた。そこで機会を見計らって、文宣帝に讒言したのだという。河清元年(562年)に高帰彦が誅殺されると、武成帝から太師の位を追贈された。

子は北斉の楽安王高勱。孫は初唐の名臣高士廉太宗長孫皇后を通して、唐の皇室の祖先でもある。

伝記資料

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