食糧ビルディング
歴史
この近辺は、江戸時代(明暦の大火以降ともいわれる[5])から西の隅田川と北の仙台堀川という水運が生かされて川岸に蔵(倉庫)が林立し、明治時代には米穀問屋の一大中心地となった[6]。
当初は木造平屋建ての建物が置かれていたものの、1923年の関東大震災によって焼失。前述のように1927年に、鉄筋3階(地下1階[4])建てのビルとして復興された。1941年(食糧管理法が制定される前年)まで、深川正米市場の取引拠点として機能した[7]。戦後の1951年からは江東食糧販売協同組合の所有となり、民間の食糧関連会社がいくつか入居する形で使用された[1]。
1983年 - 2000年までの17年間、「佐賀町エキジビット・スペース」(小池一子プロデュースの日本初ともいわれるオルタナティブ・スペース=美術館でもギャラリーでもない第三の場という意味[7])としても、活用された[2]。
建物の老朽化もあり、2002年6月末に都内のマンション開発業者(フォーユー)へ売却された後に解体され[3]、集合住宅に生まれ変わった。
跡地へ2004年10月に竣工した地上14階建て総戸数が72戸の集合住宅(三井パークホームズ・門前仲町リバーイースト)はこの建物の特徴的だった、白いアーチ型のエントランスとベージュ系のタイル貼りが使われ、敷地内にはこの建物を紹介するプレートも設置されている。
脚注
- 昭和初期のモダン建築 「食糧ビル」(江東・佐賀)が75年の歴史に幕 惜しまれつつ来春取り壊し、マンションに - 東都よみうり新聞社 バックナンバー 2002/11/08
- 佐賀町アーカイブとは - 佐賀町アーカイブ
- 現代アートの発信地、取り壊しへ 「食糧ビル」、西部警察などのロケにも - asahi.com 2002/09/30
- (31)ビル業界四季報 - 『週刊ビル経営』 第307号(平成14年10月28日)
- p.33 「5. 物流の街、深川」 - 「大消費都市、江戸」 東京海洋大学 苦瀬博仁
- 江戸を支える仙台の米 - 宮城県・仙台市の歩みと七十七銀行
- エモーショナル・サイト展 「食糧ビルという場所」 - ART遊覧
- 江東 気になる名所案内 第12回 「佐賀町の旧小菅商店」 - カルチャーナビKOTO 2013年3月号 1面 泉麻人
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