飛鳥神社

飛鳥神社(あすかじんじゃ)は、奈良県奈良市北京終町にある神社。一般に京終天神社、他に紅梅殿神社平城坐飛鳥神社とも呼ばれる[1][2]

飛鳥神社(京終天神社)

飛鳥神社(京終天神社)
所在地 奈良県奈良市北京終町45
位置 北緯34度40分21.05秒 東経135度49分45.00秒
主祭神 事代主神
加夜奈留美命
宇須多岐比女命
不足留比女命
菅原道真
本殿の様式 三間社造銅板葺
例祭 10月10日
地図
飛鳥神社(京終天神社)の位置(奈良市内)
飛鳥神社(京終天神社)
飛鳥神社(京終天神社)

祭神

奈良市史によると祭神は以下の五柱[1]であるが、異説もある[注釈 1]

歴史

由緒

1953年昭和28年)に宗教法人法に基づき登記された証書添付の「由緒沿革を示す書類」には、以下のように由緒が示されている[4]

養老二年八月[注釈 2]大和國高市郡飛鳥村の飛鳥神社の御祭神を、平城の新都左京四條七坊飛鳥の丘に、南都元興寺鎮守社として奉遷、鎮祭したことをもって本飛鳥神社の創建となっている。

中世、元興寺の寺運衰退に伴い本神社の機模も沈滞して現況の如くに京終の一隅に移遷[注釈 3]されることになった。

文政九年に贈太政大臣道眞公を増祀されて以来何日とはなく紅梅殿の社と呼ばれる習となり、元興寺別当大乗院の院主が代々奉斎していたもので、明治年代に到り、紅梅殿神社として奈良市京終地区一帯の氏神となり、今日に及んだのであるが、旧宗教法人令による紅梅殿神社を解散して、元の由緒ある社名を復元して、飛鳥神社となって今回宗教法人法による宗教法人を設立することになった。

この登記以降に発行された奈良市史、および奈良県史などの記載でも当神社の歴史は上記由緒に沿う形の記載となっている[1][2]

近世資料での記述と祭神の変化

しかしながら、登記以前の近世以前資料において、当神社が元興寺と共に飛鳥から移ったとする記述は存在しない。また、由緒では文政9年(1826年)とされる天神(菅原道眞)の勧請も、古資料では17世紀に京終村が近隣村落との水論に勝ったことを祝い勧請したとされる記録があり、登記の記述とは矛盾する[6]。 古文書、絵図などでの京終村の神社の記述には、社名や祭神などに下記の表のように異同が見られる。

京終村の神社の記録一覧
資料名発行時期神社名祭神備考
長闇堂記[7] 寛永17年(1640年 京終町天神 菅原道眞[注釈 4] 京終町天神の車除けとして設置されていた仏の彫り込まれていた石を長闇堂が取りおいていたところ、小堀遠州が気に入って石灯篭の竿として用いて伏見の邸宅に据えたのち、徳川秀忠に寄贈したとの記録がある[7]
それをきっかけに、竿に仏を彫り込んだ石灯篭が遠州好として流行した[7]
奈良曝[8]貞享4年(1687年富士権現伊勢春日
富士権現
はじめは伊勢、春日を祀っていたが、慶長18年(1613年鹿野園村との水論で利運を得たため富士を勧請[注釈 5]
奈良町絵図 十二折り本[10]宝永正徳期頃
1704年-1715年
春日社春日[注釈 6]-
奈良坊目拙解[11]享保15年(1730年天神社菅原道眞
富士浅間二座(木花開耶姫大山祇神
高畠村との水論で北野天神に祈願したところ利運を得たため天神を勧請[注釈 5]
宝永3年(1706年5月6日に当神社は火事に遭い、神体神宝、古縁起など全て失われたとされる。
大和名所図絵[12]寛政3年(1791年富士権現祠伊勢、春日
富士権現
はじめは伊勢、春日を祀っていたが、慶長年間に富士権現を勧請したとされる。
奈良細見図[13]1889年明治22年)紅梅デン社菅原道眞[注釈 7]-
實地踏測 奈良市街全図[14]1917年大正6年)紅梅殿神社菅原道眞[注釈 7]-
宗教法人登記上の由緒1953年(昭和28年)飛鳥神社元興寺鎮守飛鳥神社の祭神(詳細の記載なし)
菅原道眞
平城遷都時に元興寺鎮守社として飛鳥から遷宮、京終には中世に遷宮。
菅原道眞の勧請は文政9年。
奈良町風土記[15]1976年(昭和51年)紅梅天神社菅原道眞
富士浅間二座(木花開耶姫、大山祇神)
富士浅間は境内社。
近年飛鳥神社と改名と記される。
奈良市史[1]1985年(昭和60年)飛鳥神社事代主神、加夜奈留美命、宇須多岐比女命、不足留比女命、菅原道眞1977年の宗教法人名簿での確認で飛鳥神社とされる。

近隣神社での類似の由緒

当神社の由緒に語られる「平城京遷都時に、一緒に飛鳥から移ってきた元興寺鎮守社」という伝承は、当神社北方400mほどのところに位置する、西新屋町率川神社元興寺町白山神社にも、江戸時代の地誌内の記述という形で残る[16][17]。その後これらの神社が京終に移ったと示す資料は存在しない。

境内

本殿
参考:春日大社末社 三十八所神社
参考:春日大社末社 水谷神社

本殿

春日大社末社旧殿を移した春日移しの社殿であるが、どの末社を移したかについては、三十八所神社を移したとする説[18]と、水谷神社を移したとする説がある[1][2][注釈 8]。移築時期は、水谷神社説に従えば文政9年(1826年)とされる[1][2]三間社造で、現在の屋根は銅板葺である[1]雁字板剣巴文も見られる[1]

境内社

その他、崇徳天皇を祀る社などもある[1]

現地情報

所在地
交通アクセス

脚注

注釈

  1. 境内に残る木製の由緒案内板の記載によると、五柱の神は
    • 明日香三比女命
    • 天之事代主命
    • 賀夜奈留美命
    • 宇須太岐比女命
    • 贈太政大臣道眞公
    となっている。[3]
  2. 境内に残る木製の由緒案内板の記載によると、遷宮は和銅3年(711年[3]
  3. 境内に残る木製の由緒案内板の記載によると、京終への遷宮は宝徳15世紀天文16世紀)の土一揆で荒廃ののち[3]とされ、同じく境内に残る紙製の案内板の記載では、応安2年(1369年)の京終遷宮としている[5]。奈良市史も応安2年説を採用している[1]
  4. 社名より推測。
  5. この時の訴状が、『本光国師日記慶長19年(1614年)6月12日の条に見える[6][9]。なお、訴状の上では係争の相手方は高畠村となっている[9]
  6. 社名より推測。
  7. 絵図中に祭神の記載はないが、紅梅殿は菅原道眞の居宅を表すため、菅原道眞と推測される。
  8. 2018年現在の現況による比較では、柱の位置の特徴などにより三十八所神社に類似する。
  9. 2018年現在の現況では、金刀比羅神社の祭神は木花開耶姫と示されている。

出典

  1. 奈良市史 社寺編, p. 147.
  2. 奈良県史 5 神社, p. 268.
  3. 境内設置の木製案内板
  4. 由緒沿革を示す書類
  5. 境内設置の紙製案内板
  6. 角川地名大辞典, p. 397.
  7. 小堀遠州の作事, p. 150,158.
  8. 奈良曝, p. 39.
  9. 本光国師日記, p. 97.
  10. 奈良町展図録, p. 1.
  11. 奈良坊目拙解, p. 33.
  12. 大和名所図会, p. 132.
  13. 奈良細見図.
  14. 奈良市街全図.
  15. 奈良町風土記, p. 76.
  16. 奈良坊目拙解, p. 22,58.
  17. 元興寺由来, p. 153-155.
  18. 奈良県史 8 建築, p. 912.

参考文献

  • 池田, 源太宮坂, 敏和、奈良県史編集委員会 編『奈良県史 5 神社』名著出版、1989年。ISBN 462601335X。
  • 奈良県史編集委員会 編『奈良県史 8 建築』名著出版、1998年。
  • 奈良市史編集審議会 編『奈良市史 社寺編』吉川弘文館、1985年。
  • 『角川日本地名大辞典 29 奈良県』角川書店、1990年。
  • 『奈良曝(奈良市史編集審議会会報付録)』奈良市史編集審議会、1963年。
  • 村井古道 著、喜多野徳俊 訳・註 編『奈良坊目拙解』綜芸社、1977年。
  • 大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会. 第1輯 第3編(大和名所図会)』大日本名所図会刊行会、1919年。
  • 森蘊『小堀遠州の作事』奈良国立文化財研究所、1966年。
  • 山田熊夫『奈良町風土記』豊住書店、1976年。
  • 天理図書館『奈良町-江戸時代の「観光都市」を巡る(開館89周年記念展図録)』天理図書館、2019年。
  • 仏書刊行会. 大日本仏教全書. 139(本光国師日記)”. 国立国会図書館. 2019年12月18日閲覧。
  • 筒井庄八. 奈良細見図 1889年(明治22年)”. 国立国会図書館. 2019年12月17日閲覧。
  • 和楽路屋. 實地踏測 奈良市街全図 1917年(大正6年)”. 奈良県立図書情報館. 2019年12月17日閲覧。
  • 『本朝佛法最初南都元興寺由来(大日本佛教全書 寺誌叢書 第2)』佛書刊行會、1913年、148-156頁。
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