雅成親王
雅成親王(まさなりしんのう、正治2年9月11日(1200年10月20日) - 建長7年2月10日(1255年3月19日))は、鎌倉時代初期の日本の皇族。後鳥羽天皇の皇子で、母は修明門院、後に宣陽門院の養子となる。順徳天皇は同母兄にあたる。妻は久我通光の娘。新三十六歌仙の一人。通称:六条宮又は但馬宮。
雅成親王 | |
---|---|
続柄 | 後鳥羽天皇皇子 |
全名 | 雅成(まさなり) |
称号 | 六条宮、但馬宮 |
身位 | 三品・親王 |
出生 |
正治2年9月11日(1200年10月20日) |
死去 |
建長7年2月10日(1255年3月19日)(享年56) 但馬国城崎郡高屋(現兵庫県豊岡市) |
配偶者 | 久我通光女 |
藤原親経女 | |
子女 | 澄覚法親王、承恵、源雲 |
父親 | 後鳥羽天皇 |
母親 | 藤原重子 |
生涯
建仁4年(1204年)に親王宣下を受け、建暦2年(1212年)に元服して三品親王となる。翌年には結婚した。将軍源実朝が暗殺された直後、鎌倉幕府から親王を次期将軍に迎えたいとする要請が出されるが、後鳥羽上皇に拒絶される。承久3年(1221年)、承久の乱に加担したとして但馬国に流刑となり、同国城崎郡高屋(現在の兵庫県豊岡市)に幽閉された。その後、嘉禄2年(1226年)に出家する。
ところが、父である後鳥羽上皇の死後に幕府から赦免が出されたらしく、寛元2年(1244年)に生母の修明門院と一緒に京都で暮らしていることが記録されている。また、後嵯峨天皇に批判的とみられた平経高が寛元3年(1245年)頃に親王を訪問している[1]。その後同4年(1246年)に修明門院の最大の支援者であった当時の朝廷の実力者・九条道家が息子である将軍九条頼経と結んで、執権北条時頼とその後押しを受けた後嵯峨天皇を退けて雅成親王を次期天皇に擁立しようとしているとする風説が流される。時頼はその動きに先んじて九条親子を失脚させるとともに、雅成親王を但馬高屋に送り返した。親王はそのまま同地で病死して葬られた。
歌人としても優れており、家集『雅成親王集』がある他、『続後撰和歌集』などの勅撰和歌集にも採録されている。
雅成親王が但馬に流刑になった後、親王の妃は身重の体を顧みず、おつきの女官と伴に但馬にやってきた。高屋まで僅かのところで地元の老婆に道を尋ねたところ、「九日かかる九日市、十日かかる豊岡、人をとる一日市と、あと20日かかる」と嘘を言った。嘆いた妃は、生まれたばかりの子を石の上に寝かせ、女官と一緒に入水していたと伝わる。その埋葬された妃を弔うための神社が豊岡市日高町松岡にある十二所神社である。毎年4月14日に、災いが無いようにと、嘘を言った老婆を人形に見立てて焼く「御柱祭」、通称「ババ焼」が行われている。
豊岡市城崎町湯島には、おつきの女官の遺骸道髪を祀る、若上臈稲荷大明神がある。