隅田八幡神社
隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)は、和歌山県橋本市隅田にある神社。旧社格は県社。
隅田八幡神社 | |
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拝殿 | |
所在地 | 和歌山県橋本市隅田町垂井622 |
位置 | 北緯34度19分59.5秒 東経135度38分44.0秒 |
主祭神 |
誉田別尊 足仲彦尊 息長足姫尊 |
社格等 | 旧県社 |
創建 | 貞観元年(859年) |
例祭 | 10月15日 |
地図 |
隅田八幡神社 隅田八幡神社 (和歌山県) |
京都府石清水八幡宮から勧請された神社である。ここに伝わる人物画象鏡は、日本最古の金石文の一つとして国宝に指定されている。10月中旬の例祭は、県の無形民俗文化財に指定されている。祭礼としてはこのほか、小豆と米を炊いた粥に穴が開いた竹筒を沈め、粥の入り具合で稲作の豊凶を占う「管祭」(くだまつり)が、小正月の神事として江戸時代から行われている[1]。
人物画像鏡
「隅田八幡神社人物画像鏡」を参照
国宝に指定されている隅田八幡神社所有の銅鏡(東京国立博物館に寄託)。銘文に、
(癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る)(判読・解釈には異説あり) とあり、「癸未年」(503年)、「男弟王」が大和の「意柴沙加宮」(忍坂宮)にいた時に「斯麻」が鏡を作らせて「男弟王」の長寿を祈ったことが記される。「斯麻」は『日本書紀』のみならず墓誌にも別称の記された武寧王であるとの見方が強まっている。「男弟(おおと)王」は「男大迹(おほど)王」に比定することができ、その場合は継体天皇を指すと考えられる。この解釈では、継体天皇は503年に大和の忍坂宮にいたこととなり、継体天皇が畿内勢力の抵抗のため晩年まで大和盆地に入れなかったという見解は成り立たなくなる。ただし、ヲホドとヲヲトでは、6世紀初頭では相当発音も異なっており、「癸未年」として443年をあてる考えもあるなど、様々な問題を含んでいる。
- 境内の人物画像鏡碑
脚注
外部リンク
- 隅田八幡神社 - 和歌山県神社庁
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