陶器藩
藩史
文禄4年(1595年)に和泉国大鳥郡陶器村が岸和田城主小出播磨守秀政の領地に組み入れられる。
慶長8年3月23日(1603年)に、秀政の次男遠江守秀家の死去に伴い、秀家の養子となっていた弟の三尹が大鳥郡の秀家の遺領2千石を継ぐ。
慶長9年3月22日(1604年)に、秀政の死去に伴い、秀政の遺領および小出吉政の領地より一部が三尹に分与され、三尹は計1万石の陶器藩初代藩主となる。
三尹は、陶器北に陣屋を置き、大修恵山高倉寺を再建するなど領内を整備した。
2代藩主有宗(有棟)は、正保元年(1644年)から正保3年(1646年)にかけて新田開発を行い、開発した土地を福田村と名づけている。
福田村の村高は約827石にのぼったが[1]、これは陶器荘の表高約2931石の3割近くに相当する大きなものであった。
林羅山の詩十首「陶器十景」にその当時の風光明媚な地域の様子が謳われており、豊かな土地であったことがうかがわれる。
その後、慶安2年(1649年)、寛文3年(1663年)、延宝4年(1676年)、天和2年(1682年)、貞享5年(1687年)に渡って、藩主は、公卿の江戸や日光参向時における院使の饗応役を務めている。
3代藩主有重の跡を継いだ4代藩主重興は、病となり死に臨んだ元禄9年(1696年)4月2日に弟の重昌を養子にしたが、重昌も病になり、重興の忌が明けた元禄9年(1696年)5月28日に出仕できず、6月12日に遺領1万石を賜る旨の奉書到来するも、翌13日病甚だしく登城できず、16歳にて死去した。
重昌が御目見を果たせず17歳未満で死去したことにより、元禄9年(1696年)8月12日、陶器藩は無嗣子を理由に収公となった。これにより、陶器荘は幕府代官支配地となる。
なお、宝永2年(1705年)に5000石の旗本である小出土佐守有仍(2代藩主有宗(有棟)の4男)が采地替により陶器荘を知行地とする。以降、陶器庄は幕末まで小出主水家の知行地となる。
領地
- 和泉国大鳥郡之内6ヵ村 2931石3斗9升
- 河内国錦部郡之内3ヵ村 2020石
- 摂津国西成郡之内2ヵ村 1408石2斗
- 但馬国気夛郡之内10ヵ村 1383石6斗余
- 但馬国美含郡之内28ヵ村 2816石3斗余
参考文献
- 『徳川実紀』
- 『寛政重修諸家譜』
- 『堺市史』
- 『羅山先生詩集』
- 『「大名評判記」の基礎的研究II』
- 『土芥寇讎記』
- 『武家諫忍記』
脚注
- 貞享検地による