陰間茶屋
概要
元来は陰間とは歌舞伎における女形(女役)の修行中の舞台に立つことがない(陰の間の)少年を指した。彼らが男性と性的関係を持つことは、女形としての修行の一環と考えられていた。但し女形の男娼は一部であり、今でいう「女装」をしない男性の姿のままの男娼が多くを占めていた。陰間茶屋は当初は芝居小屋と併設されていたが、次第に男色目的に特化して、独立した陰間茶屋が増えていった。
売色衆道は室町時代後半から始まっていたとされるが、江戸時代に流行し定着した[1]。江戸で特に陰間茶屋が集まっていた場所には、東叡山喜見院の所轄で女色を禁じられた僧侶の多かった本郷の湯島天神門前町や、芝居小屋の多かった日本橋の芳町(葭町)がある[1]。京では宮川町、大坂では道頓堀などが有名だった[1]。江戸においては、上方から下ってきた者が、物腰が柔らかく上品であったため喜ばれた[1]。地方にも飛子や香具売りといった男娼があり、東海道の興津清見寺の門前では膏薬屋を兼ねた陰間茶屋が軒を連ねた[2]。
料金は非常に高額で、庶民に手の出せるものではなかった。平賀源内が陰間茶屋や男色案内書とでもいうべく『江戸男色細見-菊の園-』、『男色評判記-男色品定-』を出しており、それによれば一刻(2時間)で1分(4分の1両)、一日買い切りで3両、外に連れ出すときは1両3分~2両がかかった。ちなみに江戸中期における1両は現在の5~10万円相当とされる。
主な客は金銭に余裕のある武家、商人、僧侶の他、女の場合は御殿女中や富裕な商家などの後家(未亡人)が主だった。
但し幕府の天保の改革で風俗の取り締まりが行われ、天保13年(1842年)に陰間茶屋は禁止された。
陰間茶屋があった場所
江戸での所在地と陰間茶屋の軒数は以下のようになっている[3]。
用語
- 陰間(かげま) - 売春をする若衆。
- 陰子(かげこ) - まだ舞台を踏んでいない修行中の少年俳優。密かに男色を売った。
脚注
- 「オトコノコノためのボーイフレンド」(1986年発行少年社・発売雪淫社)P132「日本男色史」より。
- 国立国会図書館デジタルコレクション『異國叢書 第6巻』391頁~396頁 「ケンプェル江戸参府紀行 上巻」(著者:エンゲルベルト・ケンペル、訳注者:呉秀三 発行所:駿南社 発行:昭和3年(1928年)9月15日) (2018年11月3日閲覧。)
- 『江戸の下半身事情』(永井義男著,祥伝社新書)
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