阿倍人
経歴
用明朝において、遣使として高句麗に渡る。これに因んで子孫は狛(狛朝臣)姓を称した[1]。
用明天皇2年(587年)大臣・蘇我馬子が諸皇子や群臣に勧めて、大連・物部守屋を滅ぼそうと謀る。泊瀬部皇子・厩戸皇子・蘇我馬子らがともに軍勢を率いて守屋を討った。この時、阿倍人は大伴噛・平群神手・坂本糠手らと軍兵を率いて志紀郡から渋河郡の守屋の家に到った(丁未の乱)[2]。
脚注
- 『続日本紀』和銅4年12月12日条
- 『日本書紀』崇峻天皇即位前紀用明天皇2年7月条
- 「阿部家系」(『備後福山 阿部家譜』東大史料編纂所蔵)。鈴木真年『百家系図稿』巻5,阿倍
- 宝賀[1986: 371]
- 宝賀[1986: 366]
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