関西新聞
関西新聞(かんさいしんぶん)は大阪府で発行していた夕刊紙である。
関西新聞 | |
---|---|
種類 | 日刊 |
サイズ | ブランケット判 |
| |
本社 | 関西新聞社 |
創刊 | 1950年1月 |
廃刊 | 1991年4月17日 |
言語 | 日本語 |
本社所在地 | 大阪府大阪市 |
概要
当時の発行部数においても、地元紙の大阪新聞(親会社の産経新聞夕刊に紙面統合)、大阪日日新聞(朝刊移行)、新大阪(休刊)、新関西(スポーツニッポンに統廃合)や東京系の夕刊フジ、日刊ゲンダイ、大阪スポーツ(東京スポーツ)との熾烈な販売競争に巻き込まれ、劣勢に立たされていた。他紙が風俗情報を売り物にする中で、経済情報中心の硬派な紙面構成であった。許永中時代には、韓国の経済情報も掲載していた。
大阪市中央区にある広告代理店・株式会社関西企画は、関西新聞の完全子会社だったが、1982年に経営分離されている。
なお、大阪市東成区でタウン紙(月刊)「関西新聞」を発行する株式会社関西新聞社、および上掲の「新関西」(日本輿論新聞社→新関西新聞社→スポーツニッポン新聞社が京阪神向けに発行していた)とは無関係である。また、関西テレビ放送(KTV・カンテレ)、ラジオ関西(CRK)とも無関係であった。そもそも電波媒体との関係は許永中時代に近畿放送(現:京都放送)に出資していた程度だった。
沿革
1950年(昭和25年) - 1月、「関西新報」として創刊。1953年(昭和28年)3月に「関西新聞」に改題した。
1984年(昭和59年) - 前田治一郎(衆議院議員・前田正の父)に経営権が移り、同年3月16日から紙面を刷新、「夕刊かんさい」に改題した。だが、硬軟織り交ぜた紙面づくりを試みたが上手くいかず、11月2日に題号を再び「関西新聞」に戻している。
1990年(平成2年) - 許永中に乗っ取られ、その後発覚したイトマン事件に巻き込まれる形で経営が悪化。
1991年(平成3年) - 4月17日に休刊し、事実上の廃刊に追い込まれた。廃刊号では1面に「住友(銀行)・イトマン問題 巨大金融のどす黒いワナ」「問題終結後再登場を期す!!」と書かれた大見出しを打ち、ほぼ全面を使って休刊にいたった経緯を載せているが、「再登場」のメドが立たずに破産となった。
参考写真
- 関西新聞廃刊号の1面(左は1979年10月に廃刊したスポニチ夕刊・新関西の廃刊号)