長沼藤治兵衛
生涯
加治田城城主佐藤忠能の家老である長沼三徳の嫡男として生まれる。
堂洞合戦では、陣頭の佐藤忠能、忠康に続き、加治田方面から攻め上がった[1]。
加治田・兼山合戦においては、川浦川防衛線の(川浦川合戦)将として前線を守備した[2]。前哨戦である牛ケ鼻砦の戦いより全軍で加治田城を攻める作戦により、天然の掘である川浦川を上下に別れ渡航した複数の森長可勢に防衛線を突破されるも加治田城城下町にて両軍激戦を繰り広げた。
藤治兵衛は具足羽織を著し、黒の駒(騎馬)に打ち乗って最前線にて指揮と鼓舞し戦って森勢を防いだが、延友信光の嫡男の遠山半左衛門側が放った銃丸に胸板を打ち抜かれ落馬。走り寄った郎党に抱えられて加治田城の三徳櫓の中にかつぎ込まれるも、落命した[3]。
脚注
- 「堂洞合戦 戦の経過」『富加町史』 下巻 通史編、岐阜県加茂郡富加町、1980年、196頁。
- 「加治田・兼山合戦 加治田城に攻め寄せる」『富加町史』 下巻 通史編、富加町、1980年、238頁。
- 「加治田・兼山合戦 森勢優勢」『富加町史』 下巻 通史編、富加町、1980年、240 - 241頁。
- 南北山城軍記
参考文献
- 富加町史
- 堂洞軍記
- 永禄美濃軍記
- 信長公記
外部リンク
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