鍬
概説
用途
鍬は以下の用途を始めとして、広範囲な農作業で用いられる。
歴史
農業は約1万5千年前に東南アジアで始まったイモ作農業に起源があるとされる[1]。農業が始まった当時の農具は掘棒と鍬だけであった[1]。掘棒は採集や狩猟にも使用されていたのに対し、鍬にはその形跡がなく農業の開始とともに出現した農具と考えられている[2]。
エミール・ヴェルトは鍬を、刃茎差込み式、リング柄式、撞木むすび式、屈曲柄式、旗むすび式、刃孔差込み式の6種に分類した[3]。このうち刃孔差込み式以外の5種の鍬はイモ作農業に使用されていたが、刃孔差込み式の鍬は穀作とともに使用されるようになった[3]。しかし、鍬がその機能を真に発揮するためには構造は刃孔差込み式である必要があり、刃孔差込み式の鍬が出現するまでは掘棒のほうが重要な農具であった[3]。
各地の鍬
日本
構造
木製の長さ2尺から6尺の柄と、90度以内の角度をつけて取り付けた刃床部から構成される。様々な用途に供するため各種の刃床部が存在する。農業が機械化する以前、鍬は鋤や鎌などと共に、長く基本的で不可欠な農具であった。
種類
基本的にはその地域の鍛冶屋が注文に応じ手作りするものであったため、使用者の体格をはじめ、地域の土質や作物、土地の傾斜などに適合して様々な形態を持つ鍬が存在し、多機能を有するものや、一つの用途に特化されたものがある。例えば一般に重粘土地用には柄が短く、柄と刃床部とのなす角度が小さいものがよく、軽砂地用はその反対である。
小規模農園用や園芸用に販売されている現代の鍬の刃は全金属製であるが、昔は鉄が高価で貴重であったので、木の板で刃床部を作り、刃先のみに鉄を接合した。刃床部の木製部分を風呂と言い、風呂鍬と風呂なし鍬との2種類があった。
風呂鍬は、風呂、刃、柄の3部を明確に区分でき、平鍬、台鍬ともいう。打引鍬に属し、整地、中耕などに用いられる。京鍬、江戸鍬、野州鍬、南部鍬、相馬鍬などが属する。構造が堅牢であり、砂質壌土地に適する。
風呂なし鍬は、金鍬(かなぐわ)ともいい、刃床部全体が鉄板1枚でできている。打ち鍬に属し、開墾や重粘土地の耕耘に適する。この種類はさらに、上下鍬と窓鍬との2種類に分かれる。上下鍬は、ほぼ正方形の矩形で、礫質地の耕耘に用いる。窓鍬は、開墾や土工用であり、刃部に2ないし3の穴孔がある。備中鍬は窓鍬の一種ともいえ、刃部が数本にわかれ、湿地や粘重土用に適する。風呂なし鍬は金属部は鍛鉄製で、刃に鋼鉄を張り、または焼き加えるのが普通である。
またかつては、金属部が鋳鉄でできた鋳鍬も存在した。鋳鉄は製造が容易で安価であったが、鍛造の鍬に比べ脆弱であったために深耕に適さず、砂質土、軽鬆土の中耕に用いた。
文化
ことわざ
- 使う鍬は光る : 勤勉さは人を向上させ、怠け者とは外見や態度まで異なってくる。
- 縁の下の鍬使い : 環境のせいで力を思う存分発揮できないこと。
- 針で掘って鍬で埋める : こつこつ努力したものを、いっぺんに駄目にする。
- 鍬を担いだ乞食はこない : つねに鍬をふるってまじめに働けば、金には困らない。「稼ぐに追いつく貧乏なし」と同義。
- 一筆で龍は描けず、一鍬で井戸は掘れない (一筆画不成龍、一鍬掘不出一口井。中国古諺)
鍬入れ式
重要な土木工事の起工式に、施主や工事責任者などが盛り土を鍬で崩す神事。同様の儀式は世界中にあり、国家事業級の工事では国家元首が行なうこともある。ただし使用する道具は「鍬」とは限らず、ヒトラーがアウトバーンの鍬入れを行なったときはシャベルを使った。
鍬祭り
各地方に、五穀豊穣を祈願する「お鍬祭り」と呼ばれる伝統行事がある。群馬県佐波郡、長野県阿南町など中部地方に多い。
備考
- 古代中国では、日本のように土を打ち起こすタイプの鍬ではなく、土地を引き削るタイプで除草の為に用いられることが多く「鋤」と表記され、他の作業は犂によって行われる事が多かった。ところが、日本では鋤を牛が引く耕作道具であると誤解されて日本で農耕に用いられている「くわ」を表記する漢字は無いと誤認されたため、国字として「鍬」という字が創作されたという[4]。
- 現在の鍬の柄は刃床部とは別の部品となっているが、木鍬と呼ばれる古い形式の鍬は、立木から刃床部と柄になる部分が適切な角度で生えている一木を切り出し、加工して作られた。木鍬に向いた木は探して見つける他に若い木を矯正して栽培された。鍬の柄作りは奥深い山村の産業であり、量産に向かず手間のかかる仕事だった[5]。