金榜 (清)
生涯
若い時から科挙のためだけの学問をすることを潔しとせず、江永や戴震を師と仰ぎ古文辞の研究を進める。乾隆31年(1766年)に挙人となり内閣中書に抜擢される。乾隆37年(1772年)に状元となり、翰林院修撰に任命された。彼が科挙の試験を首席で突破した時の答案は、文京区にある東洋文庫ミュージアムに現物が展示されている。晩年には隠居して研究生活をおくる。彼の学問の系統は、同門の程瑤田と同じく段玉裁や王念孫の流れをくみ、「礼」「小学」の個別的追求に傾き、皖派(徽派)と呼ばれることがある。狭いテーマを深く考究するタイプの学者であり、主著の『礼箋』は「礼」についての関連資料を余すところなく収集したもので、程瑤田の『通芸録』とともに最もよいと評される[1]。
著書
- 『礼箋』3巻(乾隆59年刊行)
- 『周易攷占』
脚注
- 梁啓超『清代学術概論』平凡社(東洋文庫225)、1974年、149-150頁。
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