護持僧
護持僧(ごじそう)とは、天皇といった貴人の身体鎮護のために、祈祷を行った僧のことである。天皇への祈祷は清涼殿の二間(天皇の寝間の東の間)で行い、天皇の身体を護持することが目的であったため「御持僧」、また夜間に伺候していたため「夜居僧(よいのそう)」とも呼ばれた[1]。主に天台・真言宗の高僧が務めた。時代が下ると、天皇以外にも上皇や中宮といった天皇家の構成者や摂関家などの公家、武家にも護持僧が置かれた[2][3]。
沿革
天皇の身体は国家を体現するものであったため、修法により天皇の安穏を祈祷することは、国家の安穏や繁栄を祈ることに繋がった[4]。
その根源は天皇の病癒や延命を祈った呪師とされ、奈良時代に活躍した玄昉や道鏡は、本質的に初期の護持僧に連なる存在だとされる[5]。彼らは看病禅師として、天皇の「看病」のために活動した[6]。但し、直接的な起源は平安時代に入ってからである。
『護持僧記』といった後世の編纂史料によると、延暦16年(797年)に任じられた最澄が護持僧の初例だとされる[7][8][注釈 1]。しかし、より信頼できる史料に依拠した場合、清和天皇期が護持僧の始動した最初期とされる。この時期には、真雅・宗叡といった僧らがその後の護持僧のように天皇へ近似していた[9]。こうして9世紀中頃までに、護持僧にあたる僧が登場したことで、天皇の身体は仏教によって常に守られるようになった[10]。
11世紀前半に入ると、護持僧の数が増加し護持僧制度が整備されるとともに、寺院社会側にとってもその役職が望まれるようになった[11]。後三条天皇期には、如意輪法・普賢延命法・不動法から構成される三壇御修法が行われるようになり、その後も慣例とされた[4]。
任命
護持僧への補任は綸旨によって命じられた[13][14]。また皇太子の護持僧(春宮護持僧)は令旨によって命じられた[13]。天皇の場合、補任の時期に関しては天皇の即位前後に補任される場合と、その後に適宜補任される場合に分けられ、それらが慣習として明確化したのは後三条天皇期からである[13]。
平安時代では、護持僧に補任される僧侶を輩出した寺院は、若干の例外を除き延暦寺・東寺・園城寺の僧に占められた[15]。さらに平安時代後期以降になると、高貴な身分とされる家柄出身の僧が補任されるようになった。これは院政期に入り有力寺院が権門化する中で、天台・真言宗が宗教的に正統であることを示した[16]。またその任命は僧の昇進にも影響した[17]。
寺院の内訳は平安時代には延暦寺が最も多かったが、鎌倉時代以降、東寺の進出が顕著となった[18][注釈 2]。室町時代の時点で天皇の護持僧は、東寺・山門(延暦寺)・寺門(園城寺)派の各長官が務めるものであると認識されていた[14]。人数は一条天皇以降、各天皇で7,8人になったという[15]。その後も増加し、鎌倉時代の伏見天皇の時期には15名もの僧が補任された[19]。
平安時代末には、武家や地方へ補任する国司も護持僧を置くなど、護持僧は貴族社会で多く見られるようになった[2][20]。さらに鎌倉時代に入ると、将軍個人を護持する将軍護持僧が組織されるようになる[21]。
職務
後三条天皇期以降、護持僧となった僧侶は清涼殿の二間に伺候し修法を行うことで、仏による加護を祈った[4]。この祈祷は日常的なものであるが、その他に公務や年中行事、自然変異や中宮の出産があった時には、臨時の祈祷を行った[4]。護持僧の成立により、天皇の身体は神仏の力で常に守られるようになり、その祈祷は鎮護国家の役割も担った[22]。
護持僧による修法の特徴としては、三壇御修法(如意輪法・普賢延命法・不動法)の実施がある。その始期は後三条天皇の時期とされるが[4]、堀河天皇期とする説もある[23]。その後、三種の修法は寺院により分担され、延暦寺が如意輪法、東寺が延命法、園城寺が不動法を修するようになった[4]。如意輪法では如意輪観音を本尊とし息災、普賢延命法では普賢延命菩薩を本尊として増益を祈り、不動法(本尊不動明王)は息災や王的降伏のために修された[24]。また神仏習合が進んだことで、護持僧となった真言僧は、神祇の勧請も行ったとされる[25]。
修法以外にも、天皇への経典の誦習も行ったとされる[26]。
成立期に関する評価
また、護持僧が制度として展開していく過程については諸説ある。
湯之上隆によると、護持僧の歴史的な展開は三段階あり、法力の優れた僧が天皇との個人的な信任によって護持僧に任じられた第一期、延暦寺・東寺・園城寺といった有力寺院が護持僧を輩出した第二期、そして護持僧の補任形態や修法が固定化した第三期に分けられるという[27]。これらの時期はそれぞれ、桓武~宇多天皇、醍醐天皇期から院政期以前、後三条天皇期(院政期)以降に当たる[27]。
一方で、湯之上の時期区分については批判もある。堀裕は護持僧概念が成立する以前の段階で、護持僧と同様の性格を持った僧が活動したとわかる確実な時期(第一期)として清和天皇が誕生した時期あたりを指摘した[9]。そして第二期は護持僧制度が整い人数が増加、同時にその職務が重視されるようになった11世紀前半、第三期については決断を保留しつつ、一次史料から長日三壇御修法の実施が確実視される堀河天皇期を推定した[11]。
また、「護持僧」という言葉の初見は、平安末期に編まれた『北院御室拾要集』に引用された嵯峨天皇の日記で確認されるため、嵯峨天皇の時期から使われていたとされる[5]。しかし堀は確実な一次史料によると、11世紀前半から成立したとする[28]。
武家護持僧
鎌倉時代以降は、武家である将軍家にも護持僧が任じられた[注釈 3]。研究上、将軍の護持僧は主に武家護持僧や将軍護持僧、あるいは幕府護持僧などと呼ばれている。江戸時代には将軍護持僧はいなかったとされるが[20]、徳川綱吉に仕えた隆光など、将軍から信任を得た僧が護持僧と呼ばれる事例はある[29]。
鎌倉時代
鎌倉幕府は、鎌倉に幕府や将軍家を護持する寺社を建てることはできたが、実際に祈祷などを行う僧は京都の大寺院から選んだ[30]。特に摂家将軍時代になると、京都から顕密僧が将軍と共に鎌倉に入るようになった[31]。その後も幕府政治の状況により、京都―鎌倉間の宗教勢力図は多々変動したが、モンゴル襲来後は北条氏や将軍子弟が鎌倉宗教界の中心となり、京都の権門寺院へも進出するなど、鎌倉幕府に仕えた僧は存在感を増していった[31]。
護持僧の場合、鎌倉幕府における内訳は、東密(東寺)・台密(山門・寺門)で構成され、有事の際には陰陽師(主に安倍氏)と共に祈祷を行った[21][注釈 4]。なお、護持僧を務める顕密の高僧も、鎌倉では輩出できず、基本的に京の顕密仏教界から輩出された(または京で教育を受けた者が任じられた)[33]。宗尊親王将軍期には、後嵯峨上皇によって僧の将軍御所出仕が朝廷への出仕と同列に扱われるようになった[34]。そのため、護持僧として鎌倉へ出仕することが、僧のキャリア形成上不利ではなくなった[35]。また、北条得宗家にも護持僧が置かれた[32]。
鎌倉の宗教界は、各時期の政治状況の影響を受けたが、それは護持僧も例外ではなかった。
九条頼経が四代将軍になった際には、京から観基が護持僧として鎌倉に入った。観基は九条家が院主となった青蓮院門跡に出仕していた僧であった[36]。その他にも多数の高僧が鎌倉へ送られており、鎌倉宗教界は前代から幕府に仕えていた官僧と、九条家から派遣された僧によって構成された[36]。ただし宮騒動により、将軍周辺にいた高僧は将軍と共に鎌倉を追放された[37]。例えば、寺門派僧侶で九条良経の子であった道慶などは、京で活動した後、鎌倉に下向、頼経の護持僧となった。しかし頼経が京に追放された際には、頼経と一緒に鎌倉を去った[38]。
室町時代
初期室町幕府の武家祈祷は鎌倉幕府の政策や方針を引き継いでおり、武家護持僧も鎌倉幕府の許で活動していた門跡から選ばれた[40]。初期は、月ごとの交代制で、足利尊氏だけでなく弟の直義の祈祷も行っており、尊氏の死後は二代将軍の義詮に引き継がれた[41]。なお南北朝時代初期には、尊氏の護持僧は五人いたという[42]。鎌倉時代と異なり将軍の居所が京都となったが、護持僧に補任される人物は必ずしも天皇護持僧を兼任したわけではなかった[43]。
足利将軍の護持僧も基本的な役割は将軍の息災を祈祷することであった[44]。祈禱の内容は、6代将軍義教の時代では将軍家族の息災や兵乱に関するものがみられる[45]。義満は諸門跡による祈祷を重視したが、義持と義教は護持僧による祈祷を室町幕府における祈祷体制の中核に位置付けた[46]。護持僧任命者の宗派は、天台宗寺門派が最も重要視されており真言宗醍醐・小野派、天台宗山門派と続いた[47]。足利義満の時代には、醍醐寺の三宝院が護持僧の統括を行うようになった[48]。その後も三宝院は勢力を増し、明徳年間には、武家護持僧が一時的に醍醐寺院家に占められるようになる[49]。これは室町殿義満の関与によるもので、従来までの山門・寺門・東密の三門で編成された護持僧人事からすれば異例であり、義満による護持僧制度への積極性を示すものであった[49]。
義持時代になると、将軍護持僧の活動も広がりを見せる[43]。この時期の護持僧は二か月ごと交代で長日祈祷を行った[50]。義教時代になると、その数も六人から最大十二人に増員され[51][50]、足利義満の弟満詮の子息や南朝皇胤も護持僧に任じられた[47]。また、山門派の有力門跡であった青蓮院・妙法院・梶井の三門跡は護持僧には補任されず、幕府の護持僧制度からは外されていたとされる[52]。
任命は将軍家の家長であった室町殿の御判御教書で行われ、寺家側にとっても名誉なこととして捉えられた[53]。義持、義教将軍の時期には、将軍護持僧の地位も上昇し、僧侶側から補任を望む事例が見られるようになる一方で、未灌頂のまま護持僧に補任されたため、月ごとの祈祷に参加ができず代僧が立てられるなど形式化も進んだ[54]。義政期以降は人数が減少し衰退していったが、戦国時代まで護持僧制度は維持された[55]。なお応仁の乱以後は護持僧の補任は御判御教書ではなく、室町幕府奉行人奉書で行われるようになった[56]。
脚注
出典
- 大隅和雄「護持僧」『日本史大事典第三巻』平凡社、1993年、293-294頁
- 平1994,p. 267
- 小原2000,p. 3
- 湯之上1981,p. 38
- 湯之上1981,p. 33
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- 曾根正人「護持僧」古代学協会・古代学研究所編『平安時代史事典本編上』角川書店、897頁
- 堀1997,pp. 391-393
- 堀1997,p. 393
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- 多賀宗隼「慈円」『国史大辞典』吉川弘文館
- 湯之上1981,p. 36
- 森2006,p. 249
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