西宮砲台
概要
高さ約12m・内径約17m・壁厚1.21m(1階底部は1.53m)の石造円堡。外壁は漆喰仕上げ、内部は3層となっている[2][3]。
1階は床叩土で、中央に防火用(もしくは砲身冷却用)の井戸が掘られ、床板敷の弾薬庫が設けられていた。
2階は木造で側面に砲眼(下画像)が11個、北側に外部より指示を受けるための窓が1個開いており、大砲2門を設置し筒口を四方に向ける装備であった[2][3]。
なお、砲台は柵に囲まれており、内部は公開されていない。
- 開口部(砲眼) 奥に改修時の設置と思われる天窓が見える。
歴史
幕末の頃、国防に不安を感じていた江戸幕府では、将軍徳川家茂の時代になり勝海舟の建議を取り入れ、文久3年(1863年)、大坂湾の海防のために和田岬砲台、舞子砲台、今津砲台などとともに西宮砲台の建設が開始された[3][4]。
基礎工事(地杭打ち)では1,541本もの[注 1]松杭が打ち込まれた。建設に必要な御影石(花崗岩)は主に、備中小田郡の島々[注 2](現・岡山県笠岡市)より切り出し、海路にて運搬された[注 3]。熟練工を多く招集し突貫工事で建設が進められ、慶応2年(1866年)に竣工。完成後、空砲を試し撃ちしたが砲煙が内部に充満してしまい、結局実用には向かず、一度も使われないまま明治を迎えることとなる[2][3]。
その後西宮町は、砲台を所有する陸軍省に対し再三払い下げを申請したが不許可となったが、明治40年代に阪神電鉄へ払い下げられ、香櫨園浜遊園の一部として利用された[6]。
脚注
注釈
出典
- “国指定文化財等データベース 史跡名勝天然記念物 西宮砲台”. 文化庁. 2019年12月17日閲覧。
- 御前浜・香櫨園浜の歴史:こぼれ話 - 御前浜・香櫨園浜を未来に伝える情報発信サイト
- 西宮市史 第2巻 P.970-978
- 新西宮の文化財 P.78
- 大正11年3月8日内務省告示第49号(参照:)
- 新西宮歴史散歩 P.12
参考文献
- 魚澄惣五郎 編『西宮市史 第2巻』西宮市役所、1960年3月25日。
- 西宮市立郷土資料館 編『西宮市文化財資料第47号 新西宮歴史散歩』西宮市教育委員会、2003年3月31日。
- 西宮市立郷土資料館 編『西宮市文化財資料第48号 新西宮の文化財』西宮市教育委員会、2004年3月31日。
外部リンク
- 西宮砲台 - 西宮いいとこ情報発信 ウブスナ(西宮市観光振興課)
- 御前浜・香櫨園浜の歴史 - チーム御前浜・香櫨園浜 里浜づくり
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.