被爆建造物

被爆建造物(ひばくけんぞうぶつ)は、爆撃によって被害を受けて、被爆した建造物遺構)。戦争遺跡の一種。特に原子爆弾水素爆弾によるものを指すことが多く、この場合被曝建造物とも表記される。また、被爆樹木被爆電車についても一部述べる。

広島の原爆ドーム
長崎の浦上天主堂遺壁。
被爆建造物。
広島の被爆アオギリ
長崎の被爆クスノキ(山王神社)。
被爆樹木。

概要

被爆建造物の歴史は爆撃の歴史と重なる。建造物は爆撃の際に目印となり、付近の人共々破壊されていった。争いがおさまるとそれら建造物は危険な廃墟となり、大部分は都市開発や老朽化に伴い取り壊されるも、一部は戦史教育の為のモニュメントとして残された。

近年、空爆の比重は高まりそれにより命中精度が上がり無差別的に攻撃することはなくなってきているが、それでも被爆建造物が全くでないことはない。

被爆樹木は被爆建造物と同様に扱われるが、生物学的に見れば被爆者と同じである。

日本

太平洋戦争時、日本本土空襲により多くの建造物が破壊され現在も遺構として残っているが、日本で特に被爆建造物と呼ばれるものは、1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下および同月9日の長崎市への原子爆弾投下から残った建造物のことを指す。

1960年代、倒壊の危険をはらんだ廃墟であるため、また保存より復興を望むものや忘れてしまいたい過去を捨て去りたい思いから、これらを取り壊したい市民と、歴史の証人として残したい市民とで論争が起こる。中でも激しい論争があったのが原爆ドームである(詳細は原爆ドーム#「原爆ドーム」としての再出発参照)。近年は、歴史の語りべとなりえる被爆者が年々少なくなってきていることもあり、これらを取り壊すことに否定的な意見が多くなってきている。

木造建造物が火災により焼失したり、老朽化に伴い取り壊されたり、と当時の姿を留めているものは年々少なくなっている。また、残されたものの用途が決まらないまま放置されているものもある。一方で、改築され使用されているものもあり、資料館になるものや、店舗や工場など現役のものもある。

50年目の節目が近づいた1990年代前半から、両市は被爆建造物を洗い直し正式にリストアップし[1]、民間施設の場合は保全のために費用の3/4・上限3,000万円の助成金を出すなど被爆建造物保存事業を展開している[2]。当初登録数は広島市で103件・長崎市で46件であったが、被爆70年目にあたる2015年までに広島市で17件・長崎市で13件が取り壊されている[2]。特に民間所有のものは老朽化に加え耐震補強がかさむことから費用の問題のため取り壊しが進み、行政側としては財産権があるため強制的な存続要望は出来ないでいる[2]。一方で、リストアップしていないものにも著名な被爆遺構はあり、更に後の調査で新たに登録されたものもある。

広島

広島市は1993年、爆心地から5km以内に現存する被爆建造物をそれぞれ「被爆建物」「被爆樹木」「被爆橋梁」台帳に登録している。その保存事業第1号適用として、広島赤十字・原爆病院旧建物の壁の一部が切り取られ、歩行者から見えるように敷地内の広島県道243号広島港線側に移設された。また、「被爆電車」として広島電鉄650形電車が現役で走行、ガラスなどが突き刺さった「被爆ピアノ」も知られている。

1996年原爆ドームが世界遺産に登録されると、危機遺産リスト登録回避のために活発な周辺保全活動が行われており[3]、周辺の土地開発や被爆建物存続に多大な影響を与えている(詳細は原爆ドーム#危機遺産への登録問題レストハウス (広島市)#保存問題広島市民球場 (初代)#跡地利用に関する市の動き参照)。

広島市の台帳には、被爆当初は広島市外だった祇園町にある、熊野神社なども掲載されている。また5km圏内で考えた時に、広島市外の府中町内にあり、リストに掲載されていないキリンビール広島工場も被爆時の記録が残っていた[4][5][補足 1]

2015年には、新たに鶴羽根神社・手水舎[6]および本川公衆便所[7]が被爆建物に登録された。

長崎

長崎市は1995年、被爆を視覚的に伝えられる爆風や熱線の跡が残っているものを「被爆建造物」に指定。その中で、重要度や被害状況によりAからDの4ランクに区分した。

しかし、被爆の状況を視覚的に伝えられるものは、広島と比べると極めて少ない。このような状況となったのは、第2の被爆地であること、爆心地が市中心部から離れた浦上地区であり、保存可能な石造やコンクリート建築が比較的少なかったこと、長崎における被爆のシンボルとなりうる浦上天主堂が当事者であるカトリック長崎司教の山口愛次郎田川務長崎市長の意向により取り壊されたことなどから激しい存続論争に発展せず、市民が存続より復興や土地開発を優先したためである[1]。また爆心地周辺は山際で平野部が狭いため活用できる土地自体が少ないという点もある[8]。更に、両市には反核活動に違いがあり(詳細は怒りの広島 祈りの長崎参照)、市の財政の差もある(政令指定都市の広島市に対し長崎市は中核市)。

1988年に爆心地から0.6キロメートルにあった山里小学校の被爆校舎が解体される際、被爆者や市民から「被爆の証人」として解体を惜しむ声があった。それに対して長崎市教育委員会は新聞上で「形あるものはいずれ風化する。平和教育の一環として、精神面で継承する方が効果的」との見解を示した[9]。同校舎は同年8月より解体され、現在は長崎原爆資料館にて壁の一部と裏門の門柱のみが保存されている。

広島と同様に長崎で保存活動が活発化したのは、1992年長崎刑務所浦上刑務支所跡で遺構が見つかって以降のことになる[8]

備考

残留放射能

広島型原爆規模で計算すると、強く影響があるのは被爆後100時間、被爆前と同じレベルに戻るのは1年とされている[10]。よって、現在日本にある被爆建造物から人体に影響を及ぼすほどの放射線は発生していない

未だ爆弾による放射線が発生していると誤解されているのは理由がある。広島原爆投下2日後の1945年8月8日付ワシントン・ポストに、「原爆の脅威にさらされた地域は約70年間放射線が消えないと実験で示された」とマンハッタン計画に携わったハロルド・ジェイコブソンの談話が載った。これにアメリカ政府は糾弾を恐れすぐさまもみ消しにかかり、ロバート・オッペンハイマーがこれを否定し後にジェイコブソンも自身の発言を否定した。一方でアメリカは未だ降伏しない日本に対し「広島は75年間人畜の生存を許さぬ土地となった。また被害調査のため学者を派遣するごとき行為は自殺に等しい。」と情報操作をした[10][11]

終戦後の同年8月下旬、これをソースに朝日新聞毎日新聞などの各紙が70年あるいは75年生物不毛説を報道した[10][11]。これに加え、投下後に入市被爆した被爆者が数多くいる事から、建造物もいまだに人体に悪影響があると一部で風説が残っている[10]。さらに放射性物質が消えたことに関しては、原爆投下1ヶ月後に上陸した大型台風の枕崎台風により洗い流されたという説もある。

また、戦後アメリカの主要な核実験場(クロスロード作戦)として有名なビキニ環礁も、現在では短期間の滞在では問題ないレベルまで下がっている。

被曝線量の測定目安にはレンガ建築物が適しており、レンガの中に含まれる石英結晶は、何十年、何百年経っても放射線量を記録している[12]ガンマ線が照射されると結晶に電子的な傷がつく[13])ため、この石英を取り出し、測定(500℃に加熱することで元の状態に戻り、その際に光=ルミネッセンスが発せられ、その発光強度は吸収量に比例)することで、どの程度の線量を被曝したかがわかる[14]

放射線遮断能力

広島逓信病院(広島はくしま病院の前身)院長の蜂谷道彦は、広島原爆からの被爆からほぼ1ヶ月以内にあたる8月23日から9月19日において生存被爆者白血球数を検査し、爆心地からの距離と遮蔽状況で分類した[15](なお白血球の基準下限値は3300から4000/μl)。

遮蔽状況
屋外木造屋内RC屋内
平均値標準
誤差
被験
者数
平均値標準
誤差
被験
者数
平均値標準
誤差
被験
者数
爆心地
からの
距離(m)
0 - 500--02,200-13,00467017
500 - 1,0002,133不明72,701504283,11486614
1,000 - 1,3002,9801,089103,797796434,54094116
1,300 - 2,0004,05080054,0253558-

以上より、屋外より屋内の方が、木造より鉄筋コンクリート(RC)建造物のほうが白血球減少が少ない結果が出ていることから、建造物は放射線に対する一定量の遮蔽能力があるとわかる[15]。ちなみに広島原爆における最も近い位置での生存被爆者は、爆心地から170mの位置にあったRC建造物レストハウスの地下にいた人物であり、彼は1982年84歳まで生きている[16]

なお、このデータはあくまで広島型原爆でのものであり、長崎のケースや水素爆弾中性子爆弾などにおいてはこの限りではない。

広島市の現存リスト

広島市公式 にリストアップされているものを列挙

被爆建物

非木造とは、SRC構造RC構造

現名 現所有構造爆心地から
の距離(km)
被爆時の名称設計者
(判明分のみ)
原爆ドーム 非木造0.16広島県産業奨励館ヤン・レッツェル
平和記念公園レストハウス 非木造0.17燃料会館増田清
広島アンデルセン アンデルセン非木造0.36帝国銀行広島支店長野宇平治
旧日本銀行広島支店 日本銀行非木造0.38日本銀行広島支店長野宇平治
本川小学校平和資料館 非木造0.41本川国民学校増田清
袋町小学校平和資料館 非木造0.46袋町国民学校
本川公衆便所 広島市非木造0.48同現名
福屋百貨店 福屋非木造0.71同現名渡辺仁
中国軍管区司令部跡 非木造0.79中国軍管区司令部防空作戦室
広島市役所旧庁舎資料展示室 非木造1.02広島市役所増田清
NTT十日市ビル1棟 日本電信電話非木造1.08広島中央電話局西分局山田守
広島逓信病院旧外来棟 非木造1.37広島逓信病院外来棟山田守
広島大学旧理学部1号館 非木造1.42広島文理科大学 (旧制)
多聞院・鐘楼 多聞院木造1.75同現名
鶴羽根神社・手水舎 鶴羽根神社木造1.81同現名
頼山陽文徳殿 非木造1.82同現名
明泉寺・山門 明泉寺木造1.90同現名
広島電鉄千田町変電所・事務所 広島電鉄非木造1.92広島電鉄千田町変電所・資材倉庫
浄光寺・山門 浄光寺木造2.10同現名
広島東照宮 同左木造2.10同現名
安楽寺・本堂 安楽寺木造2.19同現名
歴清社倉庫 歴清社非木造2.20久永金紙押紙工場
己斐調整場送水ポンプ室 市水道局非木造2.31同現名
尾長天満宮 同左木造2.60同現名
國前寺 同左木造2.60同現名
真宗学寮・講堂・寮舎 同左木造2.62同現名
日本通運出汐倉庫1-3号棟 非木造2.67広島陸軍被服支廠
旧日本通運出汐倉庫4号棟 中国財務局非木造2.67
光徳寺・納骨堂 光徳寺非木造2.68同現名
広島大学附属中学校・高等学校講堂 広島大学非木造2.69広島高等学校 (旧制)講堂
善法寺・本堂・庫裏 善法寺木造2.74同現名
広島大学医学部医学資料館 広島大学非木造2.75広島陸軍兵器補給廠
蓮照寺・本堂 蓮照寺木造2.75同現名
旧濾過調整池上屋 非木造2.77牛田水源地濾過調整池上屋
舟入神社 同左木造2.78同現名
広島市水道資料館 非木造2.80牛田水源地送水ポンプ室
水道資料館別館ビデオルーム 非木造2.80牛田水源地送水量水室
旭山神社 同左木造2.80同現名
浜田樹苗園給水塔 浜田樹苗園非木造2.83日本麻紡績(株)給水塔
新庄之宮神社・本殿・拝殿 新庄之宮神社木造2.90同現名
光西寺・本堂 光西寺木造2.93同現名
妙法寺・本堂・庫裏 妙法寺木造2.94同現名
浄修院・本堂 浄修院木造3.01同現名
三瀧寺
想親観音堂・鐘楼・稲荷社・三鬼権現堂・鎮守堂
三瀧寺木造3.18同現名
広島市郷土資料館 非木造3.21宇品陸軍糧秣支廠(缶詰工場)
観音寺・本堂 観音寺(山根)木造3.26同現名
稲生神社・本殿・渡殿 稲生神社(西霞)木造3.34同現名
海神宮 同左木造3.36同現名
地蔵寺・本堂・庫裏 地蔵寺(北大河)木造3.44同現名
真幡神社(黄幡社) 真幡神社木造3.44同現名
海宝寺・山門 海宝寺木造3.47同現名
衣羽神社・本殿・拝殿・手水舎 衣羽神社木造3.59同現名
邇保姫神社・手水舎 邇保姫神社木造3.62同現名
広島市江波山気象館 非木造2.63広島地方気象台
大歳神社・本殿・拝殿 大歳神社木造3.64同現名
長束神社・本殿 長束神社木造3.69同現名
穴神社 同左木造3.84同現名
不動院 同左木造3.90同現名
本浦説教所 同左木造3.95同現名
最勝寺・本堂・門・庫裏 最勝寺木造3.95丹那説教所
覚法寺・本堂・庫裏 覚法寺木造3.96同現名
蓮光寺・門・観音堂 蓮光寺木造4.02同現名
熊野神社 同左木造4.15同現名
マツダ宇品工場 マツダ非木造4.16陸軍船舶練習部
JR貨物広島車両所 日本貨物鉄道非木造4.25広島鉄道局広島工機部
観音寺・本堂・鐘楼 観音寺(黄金山)木造4.25同現名
千暁寺・本堂 千暁寺木造4.31同現名
イエズス会聖ヨハネ修道院(黙想の家) イエズス会木造4.50イエズス会長束修練院イグナチオ・グロッパー
竈神社 同左木造4.52同現名
萬休寺・本堂・山門・庫裏 萬休寺木造4.60同現名
西福寺・本堂・庫裏・山門 西福寺木造4.62同現名
旧広島県港湾事務所 県広島港湾振興局木造4.64宇品警察署
龍宮神社 同左木造4.78同現名
熊野神社・本殿 熊野神社木造4.80同現名
慈光寺・山門 滋光寺木造4.93同現名
鷺森神社 同左木造4.93同現名
海蔵寺・本堂・山門 海蔵寺木造4.95同現名
光明寺 同左木造4.96日宇那説教所
狐瓜木神社・本殿・拝殿 狐瓜木神社木造4.98同現名
浄教寺・本堂・山門・南門・経堂 浄教寺木造4.98同現名
教専寺・本堂・経堂 教専寺木造4.99同現名
専念寺・本堂・鐘楼 専念寺木造4.99同現名
胡子神社・本殿・拝殿 胡子神社(草津)木造5.00同現名
稲生神社 稲生神社(草津)木造5.00同現名
草津八幡神社・本殿・拝殿 草津八幡神社木造5.00同現名
西楽寺・本堂 西楽寺木造5.00同現名

被爆橋梁

橋名 構造爆心地から
の距離(km)
路線名交差物件備考
京橋 鋼橋1.38市道南3区7号線京橋川
栄橋 RC1.51市道南1区6号線京橋川
比治山橋 RC橋1.71市道南3区183号線京橋川
猿猴橋 RC橋1.82市道南1区12号線猿猴川市内最古
荒神橋 RC橋1.91広島市道天満矢賀線/広島電鉄本線猿猴川併用橋
観光橋 RC橋2.56宮島街道八幡川

被爆樹木

長崎市の現存リスト

長崎市では1998年(平成10年)より、原爆により被害を受けた建築物、橋梁、植物等の調査結果から、原爆の痕跡や爆心地からの距離などを踏まえてランク付けし、AからDまでの4ランクに分類している[17]。2018年(平成30年)7月現在、長崎市内にはAランク29件、Bランク24件、Cランク13件、Dランク57件、合計123件が存在している[18]。当項では著しく原爆の痕跡が認められるAランクの被爆建造物を列挙する。

※以下のリストは長崎市「被爆建造物等ランク付け一覧表」(2012年1月時点)より作成[17]

建築物

被爆当時の名称 爆心地から
の距離(km)
管理者備考
城山国民学校 0.5長崎市国登録記念物に登録

工作物・橋梁

被爆当時の名称 爆心地から
の距離(km)
管理者備考
浜口町・火の見櫓 0.3長崎市
浦上天主堂・遺壁 0.5長崎市平和公園に展示
浦上天主堂・鐘楼 0.5浦上教会国登録記念物に登録
浦上天主堂・石垣 0.5浦上教会
大橋橋・橋塔 1.6長崎市原爆資料館に展示
長崎医科大学・門柱 0.6長崎大学国登録記念物に登録
山里国民学校防空壕 0.7長崎市平和公園に展示
山里国民学校・裏門門柱 0.7長崎市
瓊浦中学校・貯水タンク 0.8長崎市原爆資料館に展示
三菱製鋼所・鉄骨アングル 0.8長崎市原爆資料館に展示
山王神社二の鳥居 0.8山王神社国登録記念物に登録
三菱製鋼所・事務所らせん階段 1.1長崎市
淵国民学校・遺壁 1.2長崎市
穴弘法奥の院・石仏 1.2霊泉寺
銭座国民学校・階段 1.5長崎市

植物

※個人所有のものは除く

被爆当時の名称 爆心地から
の距離(km)
管理者備考
城山国民学校・カラスザンショウ 0.5長崎市2016年1月の寒波で春に新芽が出ず、大部分が枯死状態と分かり、5月には幹を切断し新たな発芽を促す施術が行われたが、7月19日に完全に枯死していることが確認された[19]
山王神社・大クス 0.8山王神社
原爆資料館・淀川ツツジ、五葉松 1.1長崎市
浦上第一病院・タイサンボク 1.4聖フランシスコ病院

脚注

補足

  1. 4.05km[4][5]。主要な工場は1990年代末。事務所棟は2011年に。煙突は2015年に解体されている。

出典

  1. “遺構は「モノ」なのか”. 西日本新聞. (2004年8月7日). http://www.nishinippon.co.jp/news/genbaku/2004/kiji/ren_yura/04.html 2010年2月26日閲覧。
  2. “遺構は「モノ」なのか”. 西日本新聞. (2015年4月5日). http://mainichi.jp/shimen/news/20150405ddm001040164000c.html 2015年7月30日閲覧。
  3. “原爆ドーム近くマンション建設”. 読売新聞. (2006年5月8日). http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hiroshima/feature/hiroshima1196996933047_02/news/20071207-OYT8T00310.htm 2010年2月26日閲覧。
  4. 『被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る』 - 173ページ
  5. 『被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る』 - 376ページ
  6. 広島市が新たな被爆建物を登録 - NHK広島放送局 2015年1月15日
  7. 公衆トイレ、被爆建物だった 市民気づき、広島市が登録 - 朝日新聞 2015年11月24日 2015年11月24日閲覧。
  8. “建物・遺構 保存に苦心”. 中国新聞. (2020年4月20日). http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=97321 2020年5月1日閲覧。
  9. 長崎の原爆遺構を記録する会『新版 原爆遺構 長崎の記憶』海鳥社、2005年。p.118。
  10. “外国の人が「放射線汚染続いてるの」”. 中国新聞. (2007年5月14日). http://www.chugoku-np.co.jp/hiroshima-koku/exploration/index_20070514.html 2010年2月26日閲覧。
  11. “平和宣言2004”. 広島市公式. http://www.pcf.city.hiroshima.jp/declaration/Japanese/2004/ 2010年2月26日閲覧。
  12. 高田純 『世界の放射線被曝地調査 自ら測定した渾身のレポート』 講談社 2002年 p.106.
  13. 高田純 『世界の放射線被曝地調査 自ら測定した渾身のレポート』 2002年 p.115.
  14. 高田純 『世界の放射線被曝地調査 自ら測定した渾身のレポート』 2002年 p.106.p.115.
  15. 蜂谷道彦原爆の災害と家屋の放射遮蔽効果」(PDF)『土木学会誌』第44巻第7号、土木学会、1959年7月、7-11頁、2013年5月5日閲覧
  16. “ヒロシマの記録1992 8月”. ヒロシマピースメディア. http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=201005131041270_ja 2013年5月5日閲覧。
  17. 原爆防空壕, p. 192-193.
  18. 被爆建造物等はどれくらいあるのですか。 長崎市あじさいコール 2018年7月26日、2018年8月9日閲覧
  19. “城山小・被爆の木、完全に枯死確認 長崎市教委、現地保存の意向”. 西日本新聞. (2016年7月20日). http://www.nishinippon.co.jp/nnp/nagasaki/article/260023 2016年7月20日閲覧。

参考文献

  • 『原爆と防空壕 歴史が語る長崎の被爆遺構』長崎新聞社、2012年。
  • 『被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る』 (広島平和記念資料館・1996年)

関連項目

外部リンク

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