膳大丘
膳 大丘(かしわで の おおおか)は、奈良時代の貴族・儒学者。姓は臣。名は大岡とも表記する。官位は外従五位下・大学博士。
凡例 膳大丘 | |
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時代 | 奈良時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 大岡 |
官位 | 従五位下大学博士兼豊後介 |
主君 | 称徳天皇→光仁天皇 |
氏族 | 膳臣 |
経歴
孝謙朝の天平勝宝4年(752年)の第12次遣唐使に随行して渡唐する。天平宝字5年(761年)第13次遣唐使に従って帰国したと想定され[1]、帰国にあたっては金剛菩薩註金剛般若経を持参したともいう。
称徳朝の神護景雲2年(768年)大学助教の官職にあった際、以下の奏上を行う。
- 天平勝宝4年(752年)の遣唐使に随従して入唐した際に、先聖(孔子)の遺風を尋ね、膠庠(学校の名前)にある余烈(先人が残した功績)を見ると、国子監に2つの門があり、その額には文宣王(孔子の諡号)廟と記されていた。国子監の学生であった程賢という者によると、今の主上(玄宗)は儒家の教えを尊び、孔子に対して王号を追号したという。このように唐では聖人の徳の名残が今にまで及んでいる。しかし、日本では旧来のままの呼称であるため、日本でも、孔子を文宣王と号してはどうか。
この提案は採用され、日本でも孔子は文宣王と呼ばれるようになった[2]。
その後、光仁朝の宝亀8年(777年)外従五位下に叙爵して大学博士に任ぜられ、宝亀10年(779年)には豊後介を兼帯した。
官歴
『続日本紀』による。
参考文献
脚注
- 宮田[1961: 99]
- 『続日本紀』神護景雲2年7月30日条
- 『日本後紀』弘仁5年10月22日条
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