稲蜂間仲村女
出自
延久4年(1072年)9月5日太政官牒[1]・保元3年(1158年)12月3日官宣旨[2]に稲八間荘(稲間荘)があり、「額田村参条稲㭭間里」などの条里が見えるため、稲蜂間連は、山背国相楽郡の当該地(現在の京都府相楽郡精華町大字北稲八間・南稲八間)にちなんだ氏族と思われる。
経歴
聖武朝の天平19年(747年)11月19日「間写経目録」に「因幡中村」として名が見えている。
孝謙朝の天平勝宝6年(754年)9月8日内侍として写経を宣している[3]。
淳仁朝の天平宝字5年(761年)正月、従七位上から外従五位下に叙爵される[4]。3月、一族の醜麻呂ら7人とともに連姓を授けられる[5]。天平宝字6年(762年)3月25日付「石山院牒」には「因八麻命婦」とあり、孝謙上皇のために鋳工を召し出している。同年12月14日に欧陽詢真跡屏風を借りだしている。
天平宝字7年(763年)正月に従五位下[6]、10月には従五位上を授けられ[7]、天平宝字8年(764年)9月、藤原仲麻呂の乱における功績により、一族の醜麻呂とともに宿禰に改賜姓され、正五位上に昇叙されている[8]。
官歴
注記のないものは『続日本紀』による
脚注
- 『平安遺文』1083号
- 同、2959号
- 『大日本古文書』巻3 - 606頁
- 『続日本紀』巻第二十三、廃帝 淳仁天皇 天平宝字5年正月2日条
- 『続日本紀』巻第二十三、廃帝 淳仁天皇 天平宝字5年3月21日条
- 『続日本紀』巻第二十四、廃帝 淳仁天皇 天平宝字7年正月9日条
- 『続日本紀』巻第二十四、廃帝 淳仁天皇 天平宝字7年10月4日条
- 『続日本紀』巻第二十五、廃帝 淳仁天皇 天平宝字8年9月23日条
- 『続日本紀』巻第二十六、称徳天皇 天平神護元年正月7日条
参考文献
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