石見焼
歴史
元々石見では窯業が盛んで、特に水瓶は北前船を使って全国津々浦々に出荷された。18世紀の中頃には周防国や備前国から本格的に技術を学び、陶器製作に磨きを掛けた。
そして、明治になって多くの窯元が藩からの庇護を失って衰退する中で、石見焼は最盛期を迎えた。その頃の窯元は100を優に数えたといわれる[1]。その躍進を支えたのが大甕である。石見焼の甕は耐水性に優れ、貯水には最適であったため全国から需要があった。
しかし昭和30年代に入ると、上水道の整備に伴って水を貯蓄する必要性が減り、またプラスチック製の容器普及が追い打ちを掛けて衰退した。窯元は一気に激減したが、その後は時代に合った容器を作ることで対応していった。代表的なものが漬物や梅干し、味噌貯蔵用の小口の瓶で、石見焼の特長である塩分、酸、アルカリによる腐蝕への強さが功を奏し、これらのヒットもあって苦しい時代を耐え抜いた。現在は傘立てやマグカップなども製作し、伝統的な意匠、技術を継承しながらも、時代の変化に対応した商品を焼き続けている。平成6年に国の伝統的工芸品に指定された[2]。
脚注
- しまねの伝統工芸 > 工芸品一覧 > 石見焼島根県
- 石見地域の特産品一般財団法人島根県石央地域地場産業振興センター
関連項目
- 温泉津焼
- 江津焼
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