相田隆太郎
略歴
山梨県北巨摩郡明野村(現・北杜市明野町)に生まれる[1]。生家は農業を営む[1]。後年の1963年(昭和38年)10月に『農民文学』第7号に発表した「加藤武雄を偲ぶ」によれば、隆太郎は15歳の時に加藤武雄『土を離れて』を読み感銘を受け、能年の評論活動に影響を与えたという[2]。
隆太郎は菊池寛・加藤武雄らと交流があり、『新潮』『文芸』などの中央の文芸誌に評論を発表している[1][2]。加藤武雄らが「創作研究会」を開催すると、相田は石原文雄・鑓田研一を誘いこれに参加する[2]。
1922年(大正11年)8月には『早稲田文学』に評論「現文壇の農民小説を論じて『吾が農民』を想ふ」を発表し、注目される[1][2]。この評論の影響を受けて、農民文学界には和田伝・橋下英吉らの作家が続いた[1][2]。
1926年(大正15年/昭和元年)には加藤武雄・吉江喬松らが農民文芸会を結成し、相田や石原文雄はこれに参加する[3]。1927年(昭和2年)には機関誌『農民』が創刊され、相田は創刊号に「農民文学論」を、1928年(昭和3年)5月の『農民』第2巻第5号には「農民小説は如何に進展すべきか」を発表する[1][2]。
脚注
- 『特設展 山梨の農民文学』、p.4
- 堀内(2008)、p.38
- 堀内(2008)、p.36
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