田中煕巳
経歴
1932年、中国東北部(旧満州)に生まれた[1][2]。陸軍の軍人であった父が脳出血のため他界したため、親類を頼って長崎市に移り住んだ[2]。父の影響を受けて幼少期の夢は軍人になることであった[2]。伊良林国民学校を経て長崎県立長崎中学校に入学し[2]、同校1年次の1945年8月9日に長崎市中川町の自宅で被爆[3]。伯母ら親族5人を亡くした[1]。日本の敗戦により陸軍幼年学校に進むという夢は絶たれたが、原爆投下時になぜ自宅のガラスは割れなかったのかという疑問をきっかけとして理工系に興味を持つようになり、貧しい生活の中で物理を学んだ[4]。1951年に長崎県立長崎東高等学校を卒業後上京し、東京大学生協で働きながら受験勉強に取り組んだ[4]。1954年に起きた第五福竜丸事件を契機として大学で核や原爆について学びたいという思いを強め、1956年に東京理科大学理学部物理学科に入学[5]。1960年に大学を卒業後、東北大学工学部助手となり、1995年より助教授[6]、1996年の定年まで研究・教育に取り組んだ[1]。また、研究と並行して被爆者運動にも参加するようになり、宮城県の被爆者団体「はぎの会」事務局長などを経て、1985年には日本原水爆被害者団体協議会(被団協)事務局長に就任[7]。多忙が元となって自律神経失調症に陥り一度は事務局長職を退いたが、東北大学の定年退官を機に埼玉県へ移住、2000年には被団協事務局長に復帰[7]。2017年6月、被団協代表委員に就任した[8]。
活動
国内外で被爆証言や被爆者支援を求める活動を行なっている。
- 1978年および1982年に開かれた国連軍縮特別総会に被団協代表団の事務局長として参加した[1][9]。
- 2005年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議において国連側との交渉を重ねた末、会場ロビーでの原爆展開催を実現させた[1][9]。
- 2007年、2008年および2010年のNPT運用検討会議準備委員会において被爆体験継承の必要性などについて発言した[1][10]。
- 2015年のNPT再検討会議では被爆者を代表して演説を行った[11]。
- 原爆症認定訴訟を通じて認定基準の改定を国に求めるなど被爆者支援に取り組んだ[12]。
- 「国家補償に基づく被爆者援護」の実現を目指しており、戦没者や被爆者に対して国が謝罪と補償を行なうことを求めている[11][13]。
発言
脚注
- “被爆者はすみやかな核兵器廃絶を望む”. 法学館憲法研究所. 2021年4月1日閲覧。
- (ナガサキノート)田中熙巳さん:2 父影響、自分の夢も軍人
- (ナガサキノート)田中熙巳さん:4 閃光、目まぐるしく変化
- (ナガサキノート)田中熙巳さん:10 物理学ぶ…必死の生活
- (ナガサキノート)田中熙巳さん:11 第五福竜丸、運動の契機
- 東北大学史料館「著作目録(田中煕巳)」第604号、東北大学史料館、1996年3月、NAID 120006314702。
- (ナガサキノート)田中熙巳さん:12 研究と被爆者運動、並行
- 日本被団協、新代表委員に田中熙巳氏=運動中心、70代被爆者へ時事通信 2017年06月07日
- (ナガサキノート)田中熙巳さん:13 米国でデモ、反響忘れぬ
- “軍縮・不拡散教育セミナー”. 外務省. 2016年8月26日閲覧。
- “ナガサキの被爆者たち 田中熙巳の生き方・3”. 長崎新聞. 2016年8月26日閲覧。
- (ナガサキノート)田中熙巳さん:1 原爆症訴訟、決着に感慨
- “世代交代へ組織正念場”. 西日本新聞. 2016年8月26日閲覧。
- “会見リポート 日本原水爆被害者団体協議会事務局長 田中煕巳”. 日本記者クラブ. 2016年8月26日閲覧。
参考文献
- 「(ナガサキノート)田中熙巳さん」『朝日新聞』(2010年1月27日~2010年2月12日付西部版朝刊長崎面に全16回連載)
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