王僧弁
生涯
天監年間(502年 - 519年)に、父の王神念に従って北魏から梁へ亡命。湘東王蕭繹に仕え湘東国左常侍・竟陵郡太守となる。太清2年(548年)、侯景の乱が起き、梁は大混乱となるが、王僧弁は蕭繹に仕え、大宝元年(550年)河東王蕭誉を討伐した功により、左衛将軍ついで領軍将軍となる。翌年さらに大都督に進み、江州で陳霸先と同盟し、巴陵の地で侯景を破る。大宝3年(552年)には侯景軍の支配下にあった首都建康を奪還するが、軍兵らの大規模な略奪により名声を失う。侯景は逃亡の途中、殺された。
侯景の乱鎮圧および建康陥落の功が認められ、永寧郡公ついで鎮衛将軍・尚書令となり、江陵にとどまっていた蕭繹を皇帝として擁立する(元帝)。さらに西征を行い、湘州の陸納や、皇帝を私称した益州の武陵王蕭紀(元帝の弟)を討伐。また、北斉の軍も撃退し、太尉・車騎大将軍となる。
かつて王僧弁に敗れた蕭誉の弟の蕭詧は西魏へ亡命し、保護されていたが、この蕭詧こそ梁の正統であるという名分のもと、承聖3年(554年)に西魏は江陵を攻め、元帝を殺害した。西魏の傀儡である蕭詧は即位(後梁の宣帝)するが、建康側はこれを認めず、王僧弁は陳霸先らとともに晋安王蕭方智(敬帝)を擁立し、太宰となった。
いっぽう、西魏と対立する北斉は、侯景の乱の頃(当時は北斉ではなく東魏)に捕らえていた元帝の従兄弟の蕭淵明(閔帝)を梁に送還し、皇帝とするよう迫った。江陵奪回のため、北斉との連携が不可避と考えた王僧弁は、淮南割譲および蕭方智の立太子を条件として、これに応じたが、あくまで蕭方智を皇帝に推す陳霸先と対立。承聖4年(555年)9月、陳霸先に攻められ、建康で敗死した。ライバルを倒した陳霸先は2年後、敬帝から禅譲を受け陳の武帝となったが、王僧弁の残党は各地で反抗し、結局陳は弱体化を免れ得ず、南朝最後の王朝となる。
子女
- 王顗
- 王頒
- 王頠
- 王顒
- 王頍
脚注
- 『梁書』巻6, 敬帝紀 承聖四年九月甲辰条による。