玉村八幡宮
玉村八幡宮(たまむらはちまんぐう)は、群馬県佐波郡玉村町にある神社。本殿が国の重要文化財に指定されている[1][2]。
玉村八幡宮 | |
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所在地 | 群馬県佐波郡玉村町下新田1 |
位置 | 北緯36度18分18秒 東経139度6分31.8秒 |
主祭神 | 誉田別命、気長足比売命、比咩神 |
社格等 | 旧県社 |
創建 | 1195年(建久6年) |
例祭 | 10月16日 |
江戸時代の日光例幣使街道の玉村宿付近に、現代では玉村町役場の西方、玉村小学校と玉村高校の狭間に鎮座している、町の中心的な神社である。
歴史
1195年(建久6年)に源頼朝が上野奉行・安達盛長に鎌倉鶴岡八幡宮からの勧請で八幡神社を創建させた[3]。当時は現在地から南方の角渕(つのぶち)村にあり、角渕八幡宮と称していた[3]。
1411年(応永18年)に鎌倉公方・足利満兼が堂舎・僧坊を再興し、1507年(永正4年)には白井城城主・長尾氏が戦火で消失したものを再建した[3]。
1605年(慶長10年)に関東郡代・伊奈忠次が、当地の新田開発工事の際に、土地の神霊に成功時に神社造設を約束する祈願を行い、5年後の1610年(慶長15年)に無事工事が完了したことで、約束通り現在地に角渕の八幡神社の本殿を移築して玉村八幡宮となった[3]。
境内地は伊奈忠次の陣屋と、開発に協力した和田与六郎の屋敷に挟まれた、中世の環濠屋敷跡とされ、新たに設置された上新田村と下新田村の境に位置している[3]。
1638年(寛永15年)に酒井忠清によって修理が加えられ、1649年(慶安2年)8月に3代将軍徳川家光より朱印地30石の神田を賜る[3]。1667年(寛文7年)、再度酒井忠清によって 社殿の修理が成され、1684年(貞享元年)には酒井忠明によって新院良仁法皇(後西天皇)の御宸筆「八幡大菩薩」の神号が奉納された[3]。その後もたびたび修理が加えられましたが、1749年(寛延2年)に酒井氏が播磨国姫路に移封されて以降は、領主による修理は行われず、以後は七郷十二ヶ村が協議の上「修理講」を興し、その講金に朱印地の収穫を合わせて祭儀の執行と社殿の修理に充てるようになった[3]。
江戸時代は神楽寺が別当寺を務めていたが、明治政府の神仏分離政策によりそれぞれ独立し、1873年(明治6年)村社に列せられる。1908年(明治41年)1月31日、境内社稲荷神社と近郷の神社8社を合祀、同年8月1日には室町時代の建築様式を残す本殿が国の特別保護建造物(旧国宝)として指定[3]。1925年(大正14年)には県社に列せられ、1950年(昭和25年)に本殿が国の重要文化財に指定[3]。1936年(昭和11年)、1999年(平成11年)に社殿の修理が行われた[3]。
境内
境内の構成は以下の通り[4]。
- 古神札納所
- 本殿(重要文化財)・拝殿
- 札場
- 神楽殿
- 湧水句碑「啼きすてて 思いなげなる 雉(きぎす)かな」(竹内勇水・筆)
- 二の鳥居
- 十六夜塚「やすやすと 出でゝいざよふ 月の雲」(1805年(文化2年)8月、竹内勇水・筆)
- 灯籠
- 力石
- 御水舎
- 御神木「夫婦楠木」
- 参集殿
- 社務所
- 狛犬
- 公衆トイレ
- 随神門
- 一の鳥居
境内社
祭事
- 歳旦祭(1月1日)
- 戌・亥八幡崇敬会大祭(旧暦初戌日・旧暦初亥日)
- 春季例祭・太々講祭典(4月15日)
- 八坂祭・夏越大祓(7月第4土曜日・日曜日)
- 人形感謝大祭(10月初旬)
- 例大祭(10月16日)
脚注
- 玉村八幡宮本殿 - 国指定文化財等データベース
- 国重文指定の本殿見やすく 玉村八幡宮 景観を整備 玉村 - 上毛新聞 2021/2/27
- 由緒 - 玉村八幡宮
- 境内のご案内 - 玉村八幡宮
- 玉村八幡宮末社国魂神社(旧玉村尋常高等小学校奉安殿) - 国指定文化財等データベース