狄銀
生涯
後梁の乾化元年(911年)、狄銀は隣国の西漢金山国(沙州漢人王国)に攻め入り、双方に負傷者が出たため、講和することとなった。この時、狄銀は西漢金山国に対し、甘州の権知可汗(仁美)を父とし、沙州の白衣天子(張承奉)を子とするよう要求した。
後唐の同光2年(924年)11月、兄の英義可汗仁美が卒去したので、弟である狄銀が後を継いで権知可汗(甘州王)となった。狄銀はさっそく都督の安千想らを後唐へ遣わして入朝させた。この月、都督の畢離遏が契丹可汗の耶律阿保機によって捕えられる。
脚注
- 当時(911年)の文書である『沙州百姓一万人上迴鶻天可汗書』では「迴鶻天可汗(ウイグル・テングリ・カガン)」と呼んでいる。
- 血族関係は不明。
参考資料
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