瀬戸丸 (仁堀連絡船)
概略
仁堀航路は宇高航路を補助する目的で開設された航路であるが、開設当初の長水丸、水島丸をはじめ、他の航路の船舶を再利用していたものである。また、1950年代には慢性的な赤字を抱え始めていた。
そのような状態で、仁堀航路は自動車運送(カーフェリー)で活路を開こうとして、1964年(昭和39年)12月、大島連絡船から転籍してきた大島丸(1961年就航)で自動車運送を開始する。大島丸は1965年(昭和40年)に安芸丸に改称後、1966年(昭和41年)には自動車搭載場を拡張し、2t車8台に増強する。この自動車運送が好評になったため、仁堀航路で最初の新造船が建造されることとなる。
新造船の瀬戸丸は臼杵鉄工所が製造し、1974年(昭和49年)11月29日竣工。自動車24台を搭載可能であった。しかし、建造中に発生したオイルショックにより材料費が高騰したため、造船所と国鉄で建造費のトラブルが発生し、仁堀航路に就航したのは1975年(昭和50年)3月9日のことである。
仁堀航路は1日2往復の運航ということもあり、思った以上の成果は上がらず、1982年(昭和57年)6月30日、仁堀航路は廃止となる。それにともない、瀬戸丸も運航を終了する。瀬戸丸は長崎県平戸市のフェリーいきつきに売却、「第五フェリーいきつき」に改名し運航。1991年に生月大橋開通により航路廃止、インドネシアに売却された[1]。
プロフィール
- 総トン数:399t
- 全長:43.6m
- 全幅:10.2m
- 定員:200名
- 自動車:24台
- 航海速力:14.3kt(最高速度)
脚注
- 『日本のカーフェリー -その揺籃から今日まで-』 海人社 2009年、p.245、p.265。
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