溝江長逸
溝江 長逸(みぞえ ながやす[1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。朝倉氏、後に織田氏の家臣。越前国金津城主。
凡例 溝江 長逸 | |
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天正2年2月19日(1574年3月12日) |
墓所 | 福井県あわら市大溝 |
官位 | 大炊助 |
主君 | 朝倉義景→織田信長 |
氏族 | 溝江氏 |
父母 | 父:溝江景逸 |
兄弟 | 長逸、辨栄(妙隆寺住職) |
子 | 長氏 |
略歴
溝江氏は溝江郷南金津に根拠をもつ土着の豪族だったが、朝倉氏が一乗谷を中心に越前の支配を強めた頃、同氏に臣従した[2]。『朝倉義景御成記』では、同名衆の中に溝江氏の名が確認出来る[3]。
長逸と父の景逸は代々朝倉氏に仕え、越前や加賀一向一揆への備えとして金津(古町字夕部)に館を構えて、しばしば一揆と戦い軍功を挙げた[2]。また、溝江氏は堀江氏に対する目付的な存在であったと考えられており、永禄10年(1567年)3月、堀江景忠・利茂父子謀反の風聞が伝わると、溝江館を本陣として堀江氏の本庄館への攻撃が行われ、この結果堀江氏は加賀へ亡命した[1]。
一方で長逸は廻国と称して織田信長と誼を通じており、天正元年(1573年)8月、朝倉義景が北近江に出兵した際には下口警固を名目に越前から動こうとせず、信長によって朝倉氏が滅ぼされると、長逸は旧領に加えて朝倉景行の所領を与えられた[1]。
しかし翌年の天正2年(1574年)2月10日、杉浦玄任を大将とした一向一揆勢に居城である金津城を攻撃される。長逸らは数日間持ち堪えるが、2月19日に落城[4][注 1]、景逸・長逸父子は妙隆寺住職の辨栄ら一族郎党30余人と、客将の富樫泰俊とともに自害した[2][3]。
注釈
- 16日に一揆方から和議の話が持ち上がり、19日に杉浦が人質とともに和睦の使者を遣わしたが、金津城を囲んでいる一揆勢の鬨の声に驚いた家臣が使者に斬り付け、再び戦いになったという。
脚注
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