浜田朝秀

浜田 朝秀( )は、内蔵介。

小山高朝(1508ー1575)の子。天文年中に浪人となり、小山氏と同盟を結ぶ金山城由良国繁に仕え、城下浜田郷に住み領地となし、小山から浜田へ改める。

子の浜田朝義(内匠助)は小田原籠城の由良国繁の軍に加わり、領地を失う。


小山氏旧領である武蔵国須賀郷に逃れ、百間村川島に住む。


慶長年中、その子朝善(久左衛門)は葛飾郡堤根村に家を建て帰農し、地主となり代々居住し、武蔵国浜田氏となる。


朝善より6代目朝定(清左衛門、1742年-1821年)の娘クラ子は千住掃部宿石出庄左衛門へ嫁ぐ。


同じく朝定の子、勝右衛門は江戸牛込山伏町の関家の養子となり当主を継ぐ。同所には数学者関孝和の家があった。関家は結城一族である。


朝善より10代目朝重の子昌家は西大輪村白石家(久喜市東鷲宮の百観音温泉)の養子となり当主を継ぐ。

参考文献

  • 武蔵の国浜田氏に代々伝わる家系図(個人所有)、小山家本家文書(写し)
  • 中世結城氏の家伝と軍記(高橋恵美子)
  • 浄輪寺関孝和三百年祭における真島秀行(お茶の水大学)の研究
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