浅草火力発電所
概要
明治時代のころ東京電燈が運用していた火力発電所は、茅場町などに設置された直流発電機による発電所で、直流送電の特性から小規模分散型を強いられており、次の問題が生じていた。
等の理由から、交流発電・送電を前提とした大型火力発電所の計画が立案され、東京電燈浅草発電所が建設されるに至った。
大正時代に入ると、老朽化が進み建て替えが検討され始めた。その矢先の1923年(大正12年)に関東大震災が発生。浅草での立地を断念し、千住に新たな敷地を求め発電所(千住火力発電所)の建設計画が進められた。
2016年(平成28年)時点で、跡地には東京電力パワーグリッド蔵前変電所がある。
発電機
発電所に据えられた交流発電機については、石川島造船所(現・IHI)が開発した発電機とドイツ(アルゲマイネ:現AEG)から輸入した発電機が特筆すべきものとして伝えられている。前者は、国産第一号でありながら世界一線級の200kWの出力を誇り、国産技術が成熟しつつあることを証明し、後者は東日本における50Hzの交流周波数を決定づけるものとなった。
煙突
発電所の燃料は、引き続き石炭が用いられた。浅草は当時も繁華街であったことから、環境の悪化を防ぐ為に、66mもの高さ(当時は日本一)を誇る鋼鉄製煙突が建設され、浅草の名物として親しまれた。折しも浅草公園の名物であった凌雲閣は同一区内で最大の電力利用者であったが、関東大震災で罹災した。
震災で倒壊せず残った三本煙突は、大正15年(1926年)に千住火力発電所へ移設された。新たに建設された1本とあわせ4本になり、後に「お化け煙突」の異名で知られた[1]。
注釈
- 池波正太郎と下町歩き断腸亭料理日記2010
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