段楊爾
段楊爾(だんように、生没年不詳)は、継体天皇の在位中である513年に朝鮮半島の百済から来日したとされる、文献に最初にあらわれる古墳時代後期の五経博士である。中国系の姓名であるため、百済に帰化していた中国人とみられるが[1][2]、末松保和などの研究によると、中国南朝の梁の文化人であり、百済に帰化していた[3][4][5]。
人物
『日本書紀』によると、513年(継体天皇七年)6月に、穂積押山が百済から帰国するときに、姐弥文貴(さみもんき)・州利即爾(つりそに)両将軍とともに同行したとされる[6]。
前年12月、穂積押山は百済への「任那四県割譲」問題で大連大伴金村の賛同を得て、四県への百済の進出を許している[6]。さらに、大和政権は段楊爾来日の同年11月に己汶(こもん)・帯沙(たさ)を百済に賜与している[7]。これらに対する返礼の結果として段楊爾の来日が実現しており、帰化ではなく、貢上・交替制度であったところに特色がある。また、高句麗や新羅に対抗する百済の外交政策のひとつであったともとれる。
516年(継体天皇十年)9月に、百済からの要請により、漢高安茂と交替させられて、帰国している[8]。一方、『日本書紀』の歴史構成を批判的に検討する文献学的批判から、継体欽明朝に五経博士が百済から交替派遣されたという五経博士伝説伝承は、事実とは認め難いという指摘もある[9][10][11][12]。
脚注
- 李在碩『소위 倭系百濟官僚와 야마토 王權』韓國古代史學會〈韓國古代史硏究 20집〉、2000年12月1日。李在碩『六世紀代の倭系百済官僚とその本質』駒澤史学会〈駒澤史学 62〉、2004年3月、46頁 。"倭系百済官僚のように異国系の人を官僚とすることは、当時百済では決して特異な現象ではなかった。たとえば百済に中国系の人からなる臣僚集団が存在していたことはすでに指摘されている通りであり、また継体・欽明紀などに見える百済からヤマト朝廷に貢進された五経博士段楊爾らも恐らくそうしたものであったろう。"。
- 전덕재 (2017年7月). “한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할” (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學東洋學硏究院): p. 110. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。
- 請田正幸『渡来人論・序章』青木書店〈歴史学研究582〉、1988年7月、14頁。
- 吉村武彦、舘野和己、林部均『平城京誕生』角川学芸出版〈角川選書〉、2010年11月25日、6頁。ISBN 4047034835。
- 末松保和『任那興亡史』吉川弘文館、1965年。
- 『日本書紀』巻第十七・継体天皇七年六月条
- 『日本書紀』巻第十七・継体天皇七年十一月五日条
- 『日本書紀』巻第十七・継体天皇十年九月
- 田中健夫、石井正敏 編『対外関係史辞典』吉川弘文館、2009年1月1日、356頁。ISBN 978-4642014496。
- 斎藤正二『日本的自然観の研究 変容と終焉』八坂書房〈斎藤正二著作選集4〉、2006年7月1日、129頁。ISBN 978-4896947847。
- 菅原信海『日本思想と神仏習合』春秋社、1996年1月1日、24頁。ISBN 978-4393191057。
- 浜田耕策 (2005年6月). “4世紀の日韓関係” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 6. オリジナルの2015年10月18日時点におけるアーカイブ。
参考文献
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