松前藩主松前家墓所

松前藩主松前家墓所(まつまえはんしゅまつまえけぼしょ)は、北海道松前郡松前町松城にある松前藩墓所である。1981年11月21日、国史跡に指定された。また、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 〜北前船寄港地・船主集落〜」の構成文化財にも選定されている。

松前藩主松前家墓所の位置(北海道内)
松前藩主松前家墓所
松前藩主
松前家墓所
位置

概要

松前藩主松前家墓所は、史跡福山城の北に続く寺町の一角にある松前家の菩堤寺法憧寺境内の北東隅にある。墓所は大きく2つの区画に分けることができる。一つは法憧寺本堂寄りの1区画で、西端に南面する正門を設けた東西に長いほぼ長方形をなしている[1]。背後の一段高い所に初代武田信広・2代光広・3代義広・4代季広合葬墓、信広の養父蠣崎季繁以下の墓、5代松前慶広(松前藩主初代)墓等5基の墓を配し、その前面に、7代公広、8代氏広、9代高広、10代矩広、11代邦広、12代資広、13代道広、14代幸広、16代昌広、17代崇広、18代徳広、19代修広をはじめ、その室や直子等の墓36基と2基の燈籠がほぼ口の字形に並んでいて、この墓所の主区画をなしている。他の1区画は、主区画の東に接する南北に長いほぼ長方形をなし、南端に裏門を開いており、6代盛広、15代良広等の墓を正面にすえて、墓石数は12基を数える。2区画とも石段を造り、通路には切石を敷きつめている[1]

墓は殆んどが五輪塔形式で、小は約70センチ、大は約140センチ、石造の屋形風覆屋におさめられているが、新しいものは、角石塔型・竿石柱型である。墓石は、古いものは青色をおびた凝灰岩であるが、新しいものは淡黒色の砂岩または花崗岩が用いられている。覆屋には木扉が造られ、扉・4壁には、経文等が彫刻されているが、扉は失われたものもある。埋葬形式は多くは仏式の土葬であったらしいが、18代徳広からは神式に変っている[1]

この墓所が造られた年代は明らかでないが、慶長11年(1606年)に福山城が完成し、元和5年(1619年)、大館の町及び寺町を福山城城下に移したという記録があること、7代公広の墓が主区画の中心をなしていることを考えると、公広の時代と考えられる[1]。蠣崎季繁等の墓1基、初代武田信広以下4代までの合葬墓1基は、寛政3年(1791年)、藩の史家松前広長が建白して追諡建碑したものであり、また5代松前慶広の墓は、公広以下の藩主の墓に較べて粗末であり、覆屋もないことから考え、墓所建設後移されたものと思われ、6代盛広の墓も、墓石から見て後世移されたものであると考えられている[1]

なお、法憧寺本堂南西には、松前家の御霊屋があり、その中には歴代藩主等の位牌がおさめられている。位牌は30~40センチである[1]

脚注

This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.