東洋学館

東洋学館(とうようがっかん)は、1884年から1885年にかけて、上海で、興亜学館(こうあがっかん)、亜細亜学館(あじあがっかん)と名称を変えながら日本人によって経営された学校[1]

中国における日本人の経営による教育機関としては、後の日清貿易研究所東亜同文書院に先んじた存在であり[1]、また、それらにも人脈の上で間接的な影響を及ぼした[2]

沿革

上海に日本人のための中国語学校を設けようとする動きは、1883年ころから、九州改進党関係者の間にあったとされている[3]。一説には、設立時の発起人にも名を連ねた中江兆民の発案であったともいう[4]1884年7月、東洋学館の設立に向けた「綱領」と「趣意書」が作成され、8月に虹口乍浦路第28号館に[5]、寄宿舎制の学校として東洋学館が開設された[6]。当時の虹口は、共同租界の一角に「日本人街」が形成されていたが[6]、開校時点における立地場所は娯楽施設が多い、風紀上の虞れも取りざたされるようなところであった[7]

発足時における構想では、修業年限を3年ないし4年とする商法学、政治経済学、法律学の専攻を置くものとされ、加えて、語学を中心に2年学ぶ予科を併設することになっていた[8]。しかし、開校当初から、上海の領事館当局からは有名無実の学校と目されて、日本政府からの公的認可や支援を受けることはできなかった[9]。結果的には専門教育はほとんど行なわれず、実態は中国語英語を教える語学学校にとどまった[1]

体制の建て直しを企図した東洋学館は、10月に『朝野新聞』主筆であった末広重恭(鉄腸)を館長に立て、現地上海に大内義映鈴木万次郎を学校設立委員として派遣し、さらに館長代理・山本忠礼などを現地に送り、いったん学館を閉館の上、11月からの再開に取り組んだ[10]。その後、再開後の校名を興亜学館とするが、「興亜」の文字を不穏とする意見を受け、さらに亜細亜学館と改称して、アメリカ合衆国租界となっていた崑山路第8号館に移転し、学校再開の開館式を行った[11]。亜細亜学館は、イギリス人、中国人の教員も加えて体制を整え、中国人学生の受け入れも行ない、日本政府に対して認可申請を行なったが、認可は遂に下りなかった[11]

最終的には、1885年9月に学生募集停止の諭達が政府から下され、財政難という背景もあって学館は解散することとなったが、負債整理と関係者の帰国のために、大隈重信が資金援助を行なった[12]

脚注

  1. 佐々博雄 1980, p. 55
  2. 熟美保子 2009, p. 147
  3. 佐々博雄 1980, p. 57
  4. 久米雅章「明治初期の民権運動と士族」『鹿児島近代社会運動史』、43頁。"(長谷場純孝は)上海に設立予定の『東洋学館』の運動に熱を入れた。これは当時民権思想家の中江篤助(兆民)の発案によるものといわれている。"。
  5. 佐々博雄 1980, p. 58
  6. 熟美保子 2009, p. 140
  7. 熟美保子 2009, p. 143
  8. 熟美保子 2009, pp. 145–147
  9. 佐々博雄 1980, pp. 59–60
  10. 佐々博雄 1980, p. 60
  11. 佐々博雄 1980, p. 61
  12. 佐々博雄 1980, p. 63

参考文献

  • 佐々博雄「清仏戦争と上海東洋学館の設立」『国士舘大学文学部人文学会紀要』第12号、国士舘大学文学部人文学会、1980年1月、ISSN 0386-5118NAID 120005957943
  • 熟美保子「上海東洋学館と「興亜」意識の変化--杉田定一を中心に (特集 「杉田定一関係文書」が語る世界)」『経済史研究』第12号、大阪経済大学、2008年、137-156頁、ISSN 1344803XNAID 110009580015
  • 小島直記著『回り道を選んだ男たち』新潮文庫、平成2年、128ページ、平岡浩太郎が東洋学館創立にあたり中江兆民を誘った)
  • 石瀧豊美著『玄洋社 封印された実像』海鳥社、2010年、164ページから、平岡浩太郎、大内義瑛が尽力した

関連項目

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