本多忠豊
本多 忠豊(ほんだ ただとよ)は、戦国時代の武将。三河国松平氏家臣。徳川四天王・本多忠勝の祖父にあたる。
凡例 本多忠豊 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天文14年9月20日(1545年10月25日) |
別名 | 平八郎、吉左衛門 |
墓所 | 愛知県岡崎市大和町妙源寺,愛知県安城市安城町赤塚 本多忠豊墓碑 |
主君 | 松平清康→広忠 |
氏族 | 藤原北家兼通流本多氏 |
父母 | 父:本多助豊、母:不詳 |
子 | 忠高、忠真 |
生涯
松平氏に仕えて、その重臣として活動した。享禄2年(1529年)の岩崎城・野呂城攻めに供奉する。享禄3年(1530年)、宇理城の熊谷直盛を攻めた際に、敵兵が主君・松平清康に迫った時には自ら進み出て奮戦した。この功により扇の指物を賜った。清康の死後、松平広忠を伊勢国から岡崎まで迎えた[1]。
天文14年(1545年)、三河安祥城をめぐる織田信秀との戦い(第二次安祥合戦)で敗北した松平広忠を逃がすため、殿軍を務めて討死した。三河国乗子の大中寺に葬られ、後に妙源寺に改葬された[1]。
脚注
- 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十一
参考資料
- 歴史群像『徳川四天王』 学研出版
関連項目
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