木原城 (常陸国)

木原城(きはらじょう)または神越城(かみこしじょう)は、現在の茨城県稲敷郡美浦村に存在した日本の城平山城)である。

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木原城
茨城県
別名 神越城
城郭構造 山城
築城主 近藤氏?
築城年 不明
主な改修者 土岐治英
主な城主 近藤利貞、近藤利勝、近藤義勝、蘆名盛重
廃城年 慶長8年(1603年)頃
遺構 曲輪土塁、石碑
指定文化財 未指定
再建造物 なし
位置 北緯36度1分14.31秒 東経140度17分30.27秒
地図
木原城の位置(茨城県内)
木原城
木原城

概要

霞ヶ浦南岸に位置し、三の丸二の丸本丸(詰曲輪)に向かうに従い標高が低くなるという特徴がある[1]。現在、本丸跡地は「木原城址城山公園」として整備され、春には城山まつりが行われている。二の丸、三の丸跡地は畑になっている。

土岐氏家臣である近藤氏の居城として知られるが、城や城主近藤氏に関する直接的な史料は極めて少なく、不明な点が多いという[2]

歴史

近藤氏菩提寺の永厳寺寺伝によると、永正元年(1504年)に居城を失った近藤利勝が「神越之城」に移り住み、永正3年(1506年)には「神越村を木原と改む」とあり、木原城の事とされる。ただしこの「神越之城」と現在の木原城跡が同じ城かは不明とされる[2]。同年、近藤義勝が城主になった。

永禄5年(1562年)、土岐治美が改修をし、近藤義勝が城の守備を任された。

天正2年(1574年)に小田氏家臣上条城主の江戸崎監物が寝返り落城した。さらに天正11年(1583年)に常陸国の大半を支配していた、佐竹義重佐竹義宣蘆名盛重らの軍に攻められ、また落城した。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉の攻撃を受けて後北条氏が滅亡すると、勢力を失った土岐氏の城は、秀吉の家臣となった佐竹義宣に降伏し、天正19年(1591年)蘆名盛重が支配するようになった。関ヶ原の戦いの後、慶長8年(1603年)に徳川家譜代大名だった内藤清成青山忠成の所領になったがこの頃に廃城になった。

その他

近年、城主・近藤利勝を描いた肖像画が発見され、2019年(平成31年)に村の有形文化財に指定された[3]

脚注

  1. 「文化財の紹介(木原城址)」美浦村公式HP
  2. 美浦村教育委員会 2005 p.7
  3. 美浦村文化財センター 2019 p.1

参考文献

関連項目

外部リンク

       

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