鄭氏政権 (台湾)

鄭氏政権(ていしせいけん)は、17世紀後半(1661年 - 1683年)の台湾に存在した政権。朝への抵抗拠点を確保するために、鄭成功が台湾を制圧することで成立した。台湾で初めて漢民族政権による統治が行われたが、清朝の攻撃によって政権は22年の短命に終わった。

鄭氏政権
延平王国
オランダ統治時代の台湾 1661年 - 1683年 清朝統治時代の台湾
鄭氏政権の国旗
(国旗)
鄭氏政権の位置
公用語 中国語
首都 承天府安平鎮王城
国王
1661年 - 1662年 鄭成功
1662年 - 1681年鄭経
1681年 - 1683年鄭克塽
人口
1664年140,000人
1683年200,000人
変遷
建国宣言
ゼーランディア城占領
1661年6月14日
滅亡1683年9月5日
通貨銅貨、銀両
現在中華民国の旗 中華民国台湾
鄭成功軍の占領地と影響圏

歴史

1644年李自成の反乱によって明朝が滅亡し、混乱状況にあった中国満州族の王朝であるが成立した。これに対し明朝の皇族・遺臣たちは「反清復明」を掲げて南明朝を興し、清朝への反攻を繰り返したが、1661年に清軍により鎮圧された。大陸での「反清復明」の拠点を失った鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保するために台湾への進出を計画。1661年3月23日に祭江を出発、翌24日には澎湖諸島を占拠しオランダ東インド会社を攻撃、4月1日には台湾本島に上陸し、1662年2月1日にはオランダ人の拠点であった熱蘭遮城を陥落させ東インド会社を台湾から駆逐することに成功した(ゼーランディア城包囲戦)。台湾の漢民族政権による統治は、この鄭成功の政権が史上初めてである。

東インド会社を駆逐した鄭成功は台湾を「東都」と改名し、現在の台南市周辺を根拠地としながら台湾島の開発に乗り出すことで、台湾を「反清復明」の拠点化を目指したが1662年6月23日(明永暦16年5月8日)に病没した。彼の息子である鄭経たちが事業を継承したが、反清勢力の撲滅を目指す清朝の攻撃を受けて1683年に降伏し、鄭氏一族による台湾統治は3代22年間で終了した。

歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たすことなく死去し、また台湾と関連していた時期も短かった。だが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実であるため、鄭成功は今日では台湾人の精神的支柱「開発始祖」「民族の英雄」として社会的に極めて高い地位を占めている[1]

なお、鄭成功は清との戦いに際し、たびたび日本へ軍事的な支援を申し入れていた(日本乞師)。しかし、鎖国体制を整えつつあった当時の幕府は火中の栗を拾うことを避け、支援は実現しなかった。

この戦いの経緯は日本でもよく知られ、後に近松門左衛門によって『国性爺合戦』として人形浄瑠璃化された。

年表

  • 1661年4月- 鄭成功鹿耳門を通り、台江内海を越えてオランダにより建てられた普羅民遮城を攻略した。鄭成功は普羅民遮城を東都明京と定め、承天府を設置した。
  • 1661年5月- 鄭成功は普羅民遮城とその周辺を拠点としてゼーランディア城を取り囲んだ。同期、鄭軍による台湾各地の駐屯が始まった。
  • 1661年9月- ゼーランディア城の支援にバタヴィアより来たオランダ艦船が台湾に到着、台江內海で海戦を起こしたが、鄭軍に撃退された。
  • 1662年1月- 鄭軍は攻略したようにゼーランディア城及び周囲の城砦に砲撃を行った。
  • 1662年2月- ゼーランディア城が陥落、オランダ人は鄭成功に投降した。鄭成功はゼーランディア城を安平鎮と改称し、鄭氏政権の台湾支配が始まった。
  • 1662年4月- 鄭経は弟乳母陳昭娘と相姦し、鄭克𡒉を産んだ。鄭成功は激怒し、鄭経、陳昭娘と鄭克𡒉を殺す命令を下したが、陳昭娘のみが殺された。
  • 1662年6月- 鄭成功は急死した。承天府の軍人は鄭襲(鄭成功の弟)を東都主に擁立した。
  • 1662年11月- 鄭経は思明州(今日の金門廈門)より安平城へ進軍し、鄭襲の勢力を破り、延平王王位を継いだ。
  • 1663年- 鄭経によって鄭成功を祀る延平王廟が建てられた。
  • 1663年7月- 鄭経は伯父でもあり戸官でもある鄭泰の忠誠心を疑い、陳永華によって提出された戦略を採用し、鄭泰に官印を贈るために鄭泰を廈門島での宴会に誘った。鄭泰は金門島より廈門島に赴き、宴会で鄭経らに軟禁された。その後、鄭泰の弟と息子らは思明州より脱出して清軍に降伏し、鄭泰も首を吊って自殺した。
  • 1663年7月- 鄭泰死後、鄭経は鄭泰の帳簿を調べたところ、鄭成功も鄭経も知らないうちに日本長崎唐通事に約三十万の預金が預かれられたことと分かった。8月、鄭経と鄭泰の息子、弟は日本の預金に対して十年以上にわたる訴訟を起こし始めた。
  • 1663年11月- とオランダの連合軍は思明州に進軍して鄭軍を破り、思明州の金門島と廈門島を占拠した。鄭経は敗れて銅山島まで撤退した。
  • 1664年3月- 鄭経は思明州を棄てて、軍隊を連れて台湾島まで退去した。同年、鄭経は東都を東寧と改号、天興県と万年県をと改めた。
  • 1664年8月- オランダ軍は台湾島北部の鶏籠(現在の基隆)まで上陸し、再び鶏籠を占拠した。
  • 1666年2月- 陳永華の意見によって先師聖廟明倫堂の工事が完了された。台湾最初の儒教が始まった。
  • 1666年8月- 鄭経の正妻唐妃は子供の一人も産まないまま死去した。
  • 1667年5月- 丁未漂人事件
  • 1668年- オランダ軍は鶏籠より全員撤退し、オランダ勢力はその際に全て台湾島より退去した。その後、鄭軍は鶏籠を占領した。
  • 1670年- 鄭軍は駐屯地を台湾西部の各地広げていったため、原住民の土地を侵害した。大肚王国大肚社沙轆社斗尾龍岸社は鄭軍に武装して対抗し、鄭経も遠征の鄭軍に敗れ、沙轆社はほぼ虐殺された。
  • 1672年10月- イギリスとの通商条約が締結された。
  • 1674年5月- 鄭経は、清国の三藩の乱に支援して大陸へ出兵した。再び清軍に奪われた思明州を回復した。西征に海を渡った際に陳永華を東寧総制を命じ、東寧の国政を陳永華に任せた。
  • 1674年後半- 日本は鄭泰の預かった預金をその遺族に返還と裁定した。だが、三藩の乱のため鄭泰の遺族は清軍によって北京に監禁されていた。その代わりに日本は判決を変更して預金を鄭経側に返還と決定した。
  • 1675年12月- 鄭経は部下を派遣して廈門島より鄭泰の預金を取り戻すように長崎に赴いた。寛文大火で焼失された金額を差し引いた後、合計二十六万の預金が得られた。
  • 1679年4月- 鄭経は陳永華の建言により、元子鄭克𡒉監国に立てた。鄭克𡒉の人となりは剛毅で果断であり、「東寧賢主」とも呼ばれていた。
  • 1680年4月- 鄭経は戦果なく、軍隊を清より撤退して東寧に帰った。
  • 1680年6月- 陳永華は軍人の馮錫範に騙され、東寧總制を辞任した。7月、龍湖巌にて没した。
  • 1680年- 王室離宮北園別館(今の開元寺)が完全された。鄭経は北園別館に移住し,国政を鄭克𡒉に委ねた。
  • 1681年3月- 鄭経は北園別館にて病没した。死に臨む時には王位を鄭克𡒉に伝えた。2日後、馮錫範(鄭克塽の妻の父)らは政変を起こし、王太妃董友を説得した後、鄭克𡒉は監国を廃位されて北園別館で殺された。その後、鄭克塽は王位を継承した。
  • 1681年4月- 鄭克塽によって鄭成功が潮武王とし、鄭経が潮文王として諡号追尊された。
  • 1681年7月- 鄭克𡒉が殺された後、王太妃董友は自責の念に駆られて死去した。その後、外戚の馮錫範が政治の実権を掌握するようになっていた。
  • 1683年7月- 清軍は鄭氏の属した澎湖へ進攻し、澎湖海戦が発生した。将軍劉国軒の引率した鄭軍艦船は清軍に撃退されて澎湖が陥落、劉国軒は承天府に逃げ戻った。
  • 1683年9月- 清軍は安平より上陸、鄭克塽が清国に降伏した。鄭氏王室による東寧王国は22年間で終了した。

行政区画

台湾を占拠した鄭成功は1661年5月、普羅民遮城を占拠し、赤崁を東都明京と定め「東都」と命名した。下部に一府二県を設置し、これとは別に澎湖安撫司を設置した。鄭成功の死後、息子の鄭経は承天府及び東都を廃止し、東寧王国と改号、天興県と万年県を州と改めた。この他澎湖安撫司以外に南北路両安撫司を設置した。

統治者

肖像 官位 王妃 在位期間 生没年月日
1 鄭成功

延平王 鄭芝龍 董友 1662年2月 - 1662年6月 1624年8月 - 1662年6月
鄭襲 東都主 鄭芝龍 1662年6月 - 1662年11月 ? - ?
2 鄭経

延平王 鄭成功 唐妃 1662年11月 - 1681年3月 1642年10月 - 1681年3月
鄭克𡒉 監国 鄭経 陳妃 1681年3月 1662年春 - 1681年3月
3 鄭克塽

延平王 鄭経 馮妃 1681年3月 - 1683年9月 1670年8月 - 1707年9月

鄭氏政権の歴史的意義

鄭氏政権は短命に終わったが、台湾の政治と経済発展に大きな意義を有している。政権は台湾における最初の漢人政権であり、また台湾独自の政権としての地位を確立し、オランダ勢力を駆逐した後は兵糧問題を解決するために屯田政策を積極的に推進した。鄭成功は武将の陳永華の建議を採用し、中央集権的な官制を制定し台湾全島を統括する「主権」を確立する。実際イギリス江戸幕府は東寧を独立国家として貿易を行い、東インド会社と鄭氏政権の間には通商条約も締結されている。イギリス側史料では鄭氏政権を「台湾王国」あるいは「フォルモサ王国」として表記し、鄭経に宛てた上書では「陛下 (Your Majesty)」との呼称が使用されていることからも、独立国として地位を獲得していたことを窺知することができる。

また鄭氏政権は、地方に割拠した一政権であるが、名目的には明朝暦法を奉じ、「回帰大陸」を究極の目的とし、政策立案や教育に関してもこの原則に従って実施されており、事実上の亡命政権であった。それまで琉求、夷州等さまざまな名称で史料に登場し名前が定まっていなかった台湾地区が、「台湾」と認識されるようになった。

漢榮書局発行の香港中学校歴史教科書副読本『風華再現──中國歷代名人錄』は、「帝皇與近代領袖篇」「名臣篇」「名將篇」「文學家篇」「文化思想家篇」「藝術家篇」「科學家篇」「抗日英雄篇」のなかの「名將篇」において、26人の名将の1人として鄭成功を教えている[2]

脚注

参考文献

関連項目

  • 永暦 (南明) - 鄭氏政権が使用した元号
  • 南明
  • 大肚王国
  • リターン号
  • 中華民国 - 同じく中国本土から台湾に逃れてきた政権。当初は「大陸反攻」を旗印としていたが、台湾と周辺の島嶼のみを実効支配する状態が固定化している。
先代
オランダ統治時代
1624年-1662年
台湾の歴史
鄭氏政権
1662年-1683年
次代
清朝統治時代
1683年-1895年
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