日野強

日野 強(ひの つとむ、1866年[注釈 1]1月23日慶応元年12月7日)- 1920年大正9年)12月23日)は、日本探検家大日本帝国陸軍の軍人である[1][2]

経歴・人物

伊予の生まれ[1][2]愛媛師範学校(現在の愛媛大学教育学部)卒業後[3]陸軍士官学校に入学し卒業後に大日本帝国陸軍少将として[1][2]日清戦争日露戦争に従軍し司令部付等を務めた[2][4]1906年(明治39年)に中央アジアの視察を命じられたことにより[2][4]ウイグルに派遣される[1][2]。清の呉禄貞と共に中国国内の視察に携わった[2]。その後は現在の河南省陝州にて当時同じく中央アジアに探検していた日本人僧の大谷光瑞と知り合ったが[2]蘭州にて呉が逮捕されたことにより[2]、その代理として上原多市と親交を持ち[4]西安まで大谷と同行した[2]

その後はハミトルファン[1][4]を経てイリ地方[1]まで上原と共に探検する[2][4]。その後は天山山脈カシュガル[1][2]、北インドのラダックを経て[2]、現在パキスタンとの紛争地域となっているカシミール地方を探検した[2][4]。その後ヒマラヤ山脈を経て[3]1907年(明治40年)12月に西ベンガルコルカタから日本に向けて帰国した事ににより[2]、約1年4ヶ月にわたる本格的な中央アジア横断探検に終止符を打った[2]1909年(明治42年)に中佐に昇格し[3]1912年(大正元年)に再度中国に移住する[3]。この頃に辛亥革命によって[2]李烈鈞の側近となり日本への亡命を補佐した[2]。後に再度帰国し大佐に昇格した後に退役したことにより[2]青島にて会社の社長や3度目の帰国後に大本教の幹部も務めた[2][3]

著書

  • 『伊犁紀行』(1907年)

脚注

注釈

  1. 1865年とする文献もある。

出典

  1. 日野強”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)株式会社DIGITALIO. 2023年2月4日閲覧。
  2. 日野強”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(ブリタニカ・ジャパン)株式会社DIGITALIO. 2023年2月4日閲覧。
  3. 日野 強”. 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)株式会社DIGITALIO. 2023年2月4日閲覧。
  4. 日野強”. 世界大百科事典 第2版(平凡社)株式会社DIGITALIO. 2023年2月4日閲覧。

外部リンク

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