日野強
経歴・人物
伊予の生まれ[1][2]。愛媛師範学校(現在の愛媛大学教育学部)卒業後[3]、陸軍士官学校に入学し卒業後に大日本帝国陸軍少将として[1][2]、日清戦争や日露戦争に従軍し司令部付等を務めた[2][4]。1906年(明治39年)に中央アジアの視察を命じられたことにより[2][4]、ウイグルに派遣される[1][2]。清の呉禄貞と共に中国国内の視察に携わった[2]。その後は現在の河南省の陝州にて当時同じく中央アジアに探検していた日本人僧の大谷光瑞と知り合ったが[2]、蘭州にて呉が逮捕されたことにより[2]、その代理として上原多市と親交を持ち[4]、西安まで大谷と同行した[2]。
その後はハミやトルファン[1][4]を経てイリ地方[1]まで上原と共に探検する[2][4]。その後は天山山脈やカシュガル[1][2]、北インドのラダックを経て[2]、現在パキスタンとの紛争地域となっているカシミール地方を探検した[2][4]。その後ヒマラヤ山脈を経て[3]、1907年(明治40年)12月に西ベンガルのコルカタから日本に向けて帰国した事ににより[2]、約1年4ヶ月にわたる本格的な中央アジア横断探検に終止符を打った[2]。1909年(明治42年)に中佐に昇格し[3]、1912年(大正元年)に再度中国に移住する[3]。この頃に辛亥革命によって[2]、李烈鈞の側近となり日本への亡命を補佐した[2]。後に再度帰国し大佐に昇格した後に退役したことにより[2]、青島にて会社の社長や3度目の帰国後に大本教の幹部も務めた[2][3]。
著書
- 『伊犁紀行』(1907年)
脚注
注釈
- 1865年とする文献もある。
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