戸田忠次
戸田 忠次(とだ ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。田原戸田氏2代当主。通称は三郎右衛門。
凡例 戸田 忠次 | |
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戸田忠次 | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 享禄4年(1531年) |
死没 | 慶長2年6月23日(1597年8月6日) |
別名 | 通称:三郎右衛門 |
戒名 |
泰平寺殿英巌玄雄大居士 →英巌寺殿傑秀玄雄大居士[1] |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 田原戸田氏 |
父母 | 父:戸田光忠 |
兄弟 | 忠次、清勝、勝則、忠勝 |
妻 | 藤田忠広 娘 |
子 | 清光、尊次、松平重忠正室 |
出自
戸田氏は光忠の兄・戸田康光が田原城を中心に三河湾沿岸を支配していた。天文16年(1546年)に今川義元に背いて松平竹千代(後の徳川家康)を駿河国へ護送せずに、織田信秀に売り飛ばしたために、その怒りを買った。田原城に攻め込んだ今川氏の軍勢によって田原戸田氏宗家は滅ぼされるが、光忠は辛うじて脱出し岡崎に逃れた。
略歴
戸田光忠(忠政)の嫡男として誕生した。
永禄6年(1563年)、土呂、針崎、佐崎の一向衆徒が徳川家に対して一揆を起こすと、忠次もこれに応じた。しかし、戸田家はそもそも徳川家とは縁戚関係および主従などの関係があったため、内通を疑う者もあった。これを恨んだ忠次は200の軍勢をもって翌7年(1564年)、徳川方に転じ、徳川家康に謁して一揆鎮圧の軍勢に加わった。その後は次第に出世して渥美郡大津(現在の豊橋市老津町付近)に2300石を与えられた。その後も永禄11年(1568年)12月からの遠州侵攻にはじまり、翌年正月の掛川城攻め、元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦い、駿河国田中城攻め、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐などで功績を挙げた。徳川家の関東移封にともない、伊豆下田城、5000石の封地を与えられた。豊臣秀吉の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の折には、忠次は老齢の身ながら肥前国名護屋城にいた家康に謁して、もし徳川軍の朝鮮出陣あらば推して従軍せんことを請うたという。秀吉はこれを聞き「壮者の亀鑑」と称賛したという。
慶長2年(1597年)6月、極老の衰病からもはや奉公に適う身でないと知り、病を押して江戸に出府し、家康に謁した後に伊豆国下田(現在の下田市)に帰り同月23日に死去した。享年67。生前は、臨済宗妙心寺派の乾瑞和尚に帰依し、乾瑞は泰平寺殿英巌玄雄大居士の戒名を与えた[2]。法名は玄雄。
嫡子の尊次が家督を継いだ。尊次は田原城主となり、城内に英巌寺を建立し、忠次を開基とした[2]。この時、忠次の戒名が「英巌寺殿傑秀玄雄大居士」に改められた[1]。
参考文献
- 徳田浩淳「蔵王山 英巌寺 由来」『英巌寺史跡』下野史料保存会、1972年4月24日、1-4頁。