感和亭鬼武
人物
本名は前野曼七(まえのまんしち、前野曼助とする説もあり)。剣術神道無念流の使い手であり、もとは一橋家の勘定方家臣であったが、武士をやめ隠居の身となる。
その後、飯田町に住んだのち浅草へ転居、画を谷文晁に、戯作を山東京伝に弟子入りして学んだ。交流のあった文人に十返舎一九らが挙げられている。
北宋の説話集「諧史」に登場する盗賊の物語を翻案し、1806年に「報仇奇談自来也説話(かたきうちきだんじらいやものがたり)」を刊行。蹄斎北馬によって描かれた挿絵もあいまって評判となり、1807年に物語を基にした歌舞伎舞台が大坂で上演されるなどし、鬼武は一躍著名な戯作家となる。
外部リンク
- 高木元「感和亭鬼武著編述書目年表稿」
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