得永祥男
経歴
長崎県西彼杵郡大瀬戸町(現:西海市)松島出身[2]。長崎市立桜馬場中学校、長崎県立長崎東高等学校から日本体育大学に進み[注 1]、1965年に同大学を卒業後、保健体育教諭として長崎県立佐世保工業高等学校に赴任した[3]。併せて同校野球部監督に就任したが、当時は海星高校をはじめとした長崎市内の高校が県代表を独占していた[4][注 2][注 3]。そこで得永は「打倒海星」をスローガンに掲げ、合理的な練習を取り入れたほか多数の県外試合を組んで強化に努めた[4][5]。1966年西九州大会決勝、1968年長崎大会決勝と甲子園出場をかけた試合でいずれも海星に敗れたが、1974年の西九州大会決勝で海星を破り優勝、県北勢として初めて甲子園出場を決めた[6]。この年を含めて佐世保工業時代に春2回・夏2回の甲子園出場を果たしたが、その4大会で勝利を挙げることはできなかった[7]。
1982年に波佐見高校へ異動[7]。不十分な練習環境など課題が山積していたが、佐世保工業時代の教え子である川原正也を監督に、長男の得永健(現:監督)をコーチに招いて指導を重ね[7]、1996年には前年決勝で敗れた長崎日大を下し、同校としては春夏通じて初めての甲子園出場を果たした[8]。準々決勝で熊本工業に敗れたが、初出場ながらベスト8まで勝ち進み[8][注 4]、「炎の軍団」と呼ばれた[3][9]。その後も自宅を寮に改造して選手を受け入れるなどして、練習環境を整えて甲子園出場を目指した[10]。
2000年秋にがんの宣告を受け胃を切除した[1]。翌年の夏に再び甲子園を果たし、病を押して指揮を執ったが初戦敗退[1]。2002年には高校野球の発展に貢献したとして朝日文化球育賞を受賞した[11][12]。
2003年2月1日、胃がんのため死去[1]。享年60。葬儀には教え子ら2千人が出席した[10]。得永を偲ぶ教え子らによって、波佐見高校グラウンドを見下ろす高台に石像が建てられた[13]。
人物・指導
戦績
佐世保工業高校
- 第56回全国高等学校野球選手権大会(1974年)
- 第47回選抜高等学校野球大会(1975年)[注 5]
- 第60回全国高等学校野球選手権大会(1978年)
- 第53回選抜高等学校野球大会(1981年)
- 1回戦:4-5 桜美林(東京)
主な教え子
- 垣野多鶴(内野手) - NTT東日本硬式野球部監督、アトランタオリンピック野球日本代表コーチ
- 白武佳久(投手) - 元広島東洋カープ・千葉ロッテマリーンズ選手
- 香田勲男(投手) - 阪神タイガース投手コーチ、元読売ジャイアンツ・大阪近鉄バファローズ選手[注 6]
- 石橋尚登(内野手) - 元広島東洋カープ・阪神タイガース・埼玉西武ライオンズ選手
- 中野達也 - 埼玉西武ライオンズトレーニングコーチ
脚注
注釈
出典
- 「早すぎる悲報、惜しむ声 熱血漢の名将・得永祥男さん死去」『朝日新聞』2003年2月2日付西部版朝刊、長崎面。
- 人物・人材情報リスト 2006, p. 240.
- “闘将 得永祥男先生 壮絶の死を悼む”. 長崎県立長崎北高等学校ラグビー部. 2016年8月29日閲覧。
- 70年史 1989, p. 813.
- 「全国制覇への道(二つのボール 野球とサッカー:下)」『朝日新聞』2002年7月13日西部版朝刊長崎面。
- 白球五十年 1998, p. 162.
- 「初戦突破 波佐見・得永祥男部長(はま風) 第78回全国高校野球」『朝日新聞』1996年8月14日付朝刊、15面。
- 白球五十年 1998, p. 314-315.
- 「「炎の軍団」甲子園へ高まる闘志(波佐見)」『朝日新聞』2001年8月4日付西部版朝刊、長崎面。
- 「波佐見 故・得永祥男氏(監督力:4)」『朝日新聞』2003年7月12日付西部版朝刊、長崎面。
- 「朝日・ncc球育賞に長崎日大と波佐見の2監督」『朝日新聞』2002年7月14日付西部版朝刊、長崎面。
- “長崎県高等学校野球連盟 感謝状及び表彰者”. 長崎県高等学校野球連盟. 2016年8月29日閲覧。
- 「(あの夏:2)得永祥男と健 父の理念継ぎ選手指導」『朝日新聞』2008年6月30日付西部版朝刊、長崎面。
- “夢舞台へ 波佐見’11センバツ<下>期待 地域と共に歩き続けて”. 西日本新聞. 2016年8月29日閲覧。
参考文献
- 日外アソシエーツ編『長崎県人物・人材情報リスト 2007』日外アソシエーツ、2006年。
- 朝日新聞社『全国高等学校野球選手権大会70年史』朝日新聞社、1989年。
- 長崎県高等学校野球連盟『白球五十年 長崎県高等学校野球史』1998年。