張儼
張 儼(ちょう げん、? - 266年)は、三国時代呉の政治家、歴史家。字は子節。呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)の人[1]。孫晧の時代に九卿のひとつである大鴻臚となった。
張儼 | |
---|---|
呉 大鴻臚 | |
出生 |
不明 揚州呉郡呉県 |
死去 | 宝鼎元年(266年) |
拼音 | Zhāng Yǎn |
字 | 子節 |
主君 | 孫権→ 孫亮→ 孫休→ 孫皓 |
生平
張儼は若年時から既に名声を博しており、同郷の朱桓の子の朱異・張惇の子の張純と友好を結んだ。三人で驃騎将軍朱拠をたずねた折には、その才を賞賛された[2]。呉に使えると顕職を歴任し、孫権に『請立太子師傅表』を上表した[3]。後に博聞多識をもって大鴻臚に任命された。宝鼎元年(266年)、命令を受け五官中郎将丁忠とともに晋への使者となり、司馬昭を祭る喪事に参列した[4]。張儼は洛陽に到着した後、賈充・裴秀・荀勗らに難問をもって試されたがこれに屈さなかったという。また羊祜・何楨らと親交を結んだ[5]。呉の都の武昌への帰還の途中に亡くなった[6]。
著作には『黙記』三巻・『張儼集』二巻があり、子の張勃・張翰らが張儼の死後、善く書き写したため散逸を免れたとされるが現在は失われている。『黙記』は裴松之が『三国志』の注釈と付けた諸葛亮の『後出師表』の出典とされるが、その真贋には議論がある[7]。
注釈
- 呉郡の「張家」は「顧家」「陸家」「朱家」と並んで呉の四姓と称された。『呉録』
- 『三国志』呉志朱桓伝が引く『文士伝』:三人各隨其目所見而賦之,皆成而後坐,據大歓悦。
- 『芸術類聚』巻六十
- 『呉録』:使于晋,晧謂儼曰:“今南北通好,以君為有出境之才,故相屈行。”
- 『呉録』:既至,車騎将軍賈充・尚書令裴秀・侍中荀勗等欲傲以所不知而不能屈。尚書僕射羊祜・尚書何楨並結縞帯之好。
- 『三国志』呉志孫晧伝:及還,儼道病死。
- 『後出師表』は偽作か真作かの項目参照。
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.