弥八地蔵
歴史
弥八地蔵の由来は諸説あるが、戦国時代、織田信長の家臣加賀野井駿河守重信の子弥八郎が、埋葬地として開いたのが始まりといわれる[1]。
この地は「弥八三昧(やはちざんまい)」と呼ばれ、慶長十四年(1906年)の大久保石見守の検知では、東西百二十五貫、南北九十四貫の範囲であった[2]。安永四年(1775年)頃には、岐阜町、小熊村、今泉村、上加納村の共同墓地で、尾張藩の御仕置場でもあった[3]。
戦前は、若宮町通りは狭く、置屋もある色町であった。女性の参拝者が多かった。1940年(昭和15年)頃は立像ではなく、寝釈迦が本尊だったと伝えられている。 1945年(昭和20年)の岐阜空襲の時、鐘は供出し、木造の鐘つき堂も消失する。まだ、焼け野原だったころ、浮浪者が大勢境内で寝起きしていた。柳ケ瀬の人々からプランが持ち上がり、劇場の舞台づくりの経験がある柴田光次郎が、工事を引き受ける。10メートルあまりのそびえ立つ地蔵が1か月で完成したが、中は木箱で空洞であった。繁華街のシンボルとなり、主として花柳界の人たちが商売繁盛を祈った[3]。子安地蔵や、力地蔵水かけ地蔵など色とりどりの地蔵があり、朝から参拝の人が絶えず、毎月24日のお地蔵さんの命日はとりわけ参拝者が多かった[4]。
1994年(平成5年)、竜宮の形の楼門が建設された。設計は司設計事務所、施工は坂口組。
境内
竜宮門をくぐると、参道の左右に多数の地蔵が並んでいる。参道の左には荼枳尼天をまつったお堂、右手奥には弥八地蔵尊をまつった本堂、その向かい側に水かけ地蔵がある。境内には飲食店が並んでいる。
荼枳尼天
境内に入って左側にある。
本堂
境内奥の右側にある。
弥八地蔵尊
かつて六体安置されていた石地蔵のうちの一体が、現在本堂に安置されている[7]。
エピソード
参考画像
- 弥八地蔵尊
- 境内の地蔵
- 境内の地蔵
- 境内の地蔵
- 竜宮門内側
脚注
- 市史 1969.
- 市史 1969, p. 482.
- わがまち明徳 1983, p. 83.
- 「柳ケ瀬・第6部2:中身は木箱で空洞 弥八地蔵」,岐阜日日新聞,1975年8月24日朝刊,14面
- 『いろは郷土史』,岐阜タイムス社,1952年9月3日
- わがまち明徳 1983, p. 73.
- 高牧 1980, p. 204.
- 市史 1969, p. 484.
- 「やながせ 4」,岐阜日日新聞,1960年9月8日,東海夕刊,3面
- “岐阜バス 柳バス(濃姫バス)”. 2017年11月23日閲覧。
参考文献
- 近藤, 隆之介『岐阜県名所旧蹟案内・上編』美濃新聞社、1907年。
- 平塚, 正雄『濃飛史譚』岐阜県人協会、1967年。
- 岐阜市役所『岐阜市史(復刻版)』岐阜県郷土資料刊行会、1969年。
- 高牧, 實『わが町の歴史・岐阜』文一総合出版、1980年。
- 記念誌編集委員会『わがまち明徳 1983』明徳記念事業執行委員会、1983年。
- 弥八地蔵が取り上げられている文献
- 『続 岐阜のつたえ話』岐阜市教育文化振興事業団・岐阜市生涯学習センター 2006年
- 『美濃國 郷土史壇』第6巻第12号 1940年
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