市場姫

市場姫(いちばひめ、? - 文禄2年5月2日1593年6月1日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。松平広忠の娘。徳川家康の異母妹。

生涯

三河岡崎城主・松平広忠の娘として誕生。母は田原城主の戸田康光の娘・真喜姫[1]、もしくは平原氏[2]。徳川家康の異母妹にあたる。

はじめ父・広忠は、刈谷水野氏から於大の方を正室にしていたが、この頃の松平氏(後の徳川氏)は勢力地盤が弱く、広忠が今川氏に従ったのに対し水野氏は織田氏に与したこともあり、於大の方と離別。その後、継室として真喜姫と再婚し、市場姫が誕生した。なお、松平広忠には6人の子がいたが、正室・継室の子は家康と市場姫だけである。

父・広忠が死去し異母兄・家康が家督を継承すると、市場姫は八ツ面城主・荒川義広へ嫁いだ。義広との間に弘綱、家儀、木崎殿(松平親能室)をもうける。ところが、永禄6年(1563年)からの三河一向一揆において、義広は一揆方に荷担し家康に刃向った。これを怒った家康によって義広は八ツ面城を追われたが、市場姫は家康の妹であることからお咎めはなかった。後に筒井定次に嫁いだといわれている(異説あり)。

文禄2年(1593年)、死去。墓は不退院(現・愛知県西尾市)にあり、葬儀では導師を本翁意伯鳥居元忠の兄)が務めた [3]

脚注

  1. 「寛政譜」14巻「戸田」318頁は弾正少弼「某」を「今の呈譜 康光に作る」とし、娘「真喜姫」を「広忠卿の簾中たり」と記している。
  2. 「柳営婦女伝系」では荒川甲斐守頼持の室を平原氏娘の子とし(137頁)、それとは別に戸田弾正少弼康元娘の子として「一場御前」とする(「御九族記」同じ)。一方「松平記」()「改正三河後風土記」(上巻172頁)は広忠との間に子はなかったとしている。「寛政譜」2巻「吉良」は義広の室として「市場の御方」と記し(217頁)また「士林泝洄」巻37「荒川」は甲斐守「義弘」の子・次郎九郎「弘綱」の母を「広忠卿御女」とする(下記刊行本229頁)。しかしその生母についての記述はない。「市場殿」の呼称は「御九族記」巻1、「徳川幕府家譜」34頁、「徳川実紀」1巻24頁に示される。
  3. 上道目記不退院所蔵

外部リンク

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