岩崎松之助

岩崎 松之助(いわさき まつのすけ[1]1919年7月[2]-2006年6月17日[3])は、日本工学者工学博士[1]。専門は航空力学九州大学名誉教授、熊本工業大学(崇城大学)名誉教授[4]。プロペラの研究や、ショックチューブとショックネンタルを用いた流体力学研究が特に知られており、日本の航空力学の基礎を築いたと評価されている[4]

人物

朝鮮総督府の養蚕試験場で生まれ、間もなく父・岩崎行高が鹿児島高等農林学校教授に就任したため鹿児島県鹿児島市で育つ[2][4]。なお、祖父の岩崎行親は鹿児島県における中高等教育草創期の中心的人物[5][2]

鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)に進学し、模型飛行機づくりに熱中する[2][4]。当時の同級生に横山正治がいた[2][4]第七高等学校造士館 (旧制)理科甲類を1940年に卒業した後、九州大学工学部航空学科へ進学[2][6]。太平洋戦争開戦を挟み、九州大学を2年半で繰り上げ卒業後、同大学講師となる[4]。当時戦時下で1943年には立川の第一陸軍航空技術研究所にて[2]大風洞を使ったプロペラ性能実験にも従事[4]

戦後、九州大学工学部に戻り、1947年6月に助教授就任[3]。戦後の一時期はGHQ令で航空学科が応用力学科に変更されプロペラ性能実験も不可だったため、その時期は飛行機の風洞を活用して、風車や防風林の研究もした[4]。助教授在任中の1960年に論文「後流の細まりまたは広がり、および後流中の渦面のピッチの変化を考慮に入れたプロペラの渦理論」で九州大学より工学博士号授与[1][2]1962年4月に九州大学工学部教授に昇任して、1983年に九州大学教授を退官し名誉教授 [3]1993年より熊本工業大学[7]教授、後に名誉教授。

1954年頃からショックチューブ(衝撃波管)を用いた衝撃波の研究に熱中し、ソ連の人工衛星打ち上げによって宇宙工学が注目を集めだした頃より、ショックチューブを改良したショックネンタル(衝撃波風洞)で東京大学や京都大学の研究者と宇宙工学の基礎実験に取り組んだ[4]

1995年秋、勲二等瑞宝章[8]2006年6月17日、急性肺炎にて福岡市で逝去[9]

脚注

  1. CiNii博士論文-岩崎松之助 2019年11月10日閲覧
  2. 南日本新聞社・編『郷土人系 上』(春苑堂書店、1969年)404頁
  3. 『九州大学百年史』(2017年3月)第11巻 資料編Ⅳ(九州大学百年史編集委員会「九州大学百年史 第11巻 : 資料編Ⅳ」第11巻、九州大学、2017年3月31日、doi:10.15017/1800865
  4. 南日本新聞1999年9月19日朝刊5頁かごしま人紀行
  5. 行親は鹿児島県立中学造士館初代館長、鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)第二代校長(当時の校名は、鹿児島県尋常中学校→鹿児島県第一尋常中学校→鹿児島県第一中学校→鹿児島県立鹿児島中学校)、第七高等学校造士館 (旧制)初代館長を歴任した
  6. 七高史研究会『七高造士館で学んだ人々 改訂版』(2001年、国立国会図書館蔵)
  7. 後に崇城大学と改称
  8. 朝日新聞1995年11月3日朝刊25頁
  9. 朝日新聞2006年6月19日朝刊31頁
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