岡本時仲
略歴
天正7年(1579年)8月29日、築山殿が徳川家康の上意により処分が決まり、佐鳴湖付近で殺害の際、時仲は介錯を行ったという[1][2]。
時仲の子・岡本大八はのちに本多正純の与力となったが、慶長17年(1612年)3月21日、邪宗門のかどにより安倍川原で火刑にされた[2]。
参考文献
- 『岳南史第3巻』(岳南史刊行会、1935年、649p)
- 『徳川諸家系譜 2』(続群書類従完成会、1974年、19p)
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