山田宗重
山田 宗重(やまだ むねしげ)は、戦国時代の武将。尾張国出身。阿波仁宇城主。名は八郎右衛門。息子は将軍家より感状を賜った「阿波七感状」の一人である山田宗登。
凡例 山田 宗重 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 1538年(天文7年) |
死没 | 1618年3月16日(元和4年2月20日) |
別名 | 八郎右衛門 |
墓所 | 丈六寺 |
主君 | 織田信長→蜂須賀正勝→蜂須賀家政 |
藩 | 徳島藩 |
氏族 | 橘姓山田氏 |
父母 | 山田宗純 |
兄弟 | (兄)山田宗俊 |
子 | 山田宗登 |
来歴
生い立ち
天文7年(1538年)、尾張国山田郡の武士、山田孫右衛門宗純の次男として生まれる[1]。本姓は橘氏で、遠祖は左大臣橘諸兄のため、家紋は「丸に橘」を用いた。
父・山田宗純は織田信長に仕え、宗重も信長に仕えて度々軍功を為す。天正4年(1576年)、信長が近江安土に城を築き、本居を安土城に移したため、山田宗重も父・兄らと共にこれに従って近江国八幡山へ住居を移した[1]。
本能寺の変
天正10年6月2日(1582年7月1日)、本能寺の変で明智光秀が信長を襲撃した時、宗重の兄・山田喜兵衛宗俊は近江長浜城を守備していたが、宗俊は光秀に招かれ、山本山城主・阿閉貞征、山岡治右衛門、不破七蔵、宝泉坊らと共に、光秀に協力する旨を神前に誓い、神水を呑んだ。その為、羽柴秀吉は山田宗俊を、謀叛人として征伐した[1]。
補註
- 『鷲敷町史』、昭和56年(1981年)
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