山村代官屋敷

山村代官屋敷(やまむらだいかんやしき)は、長野県木曽郡木曽町福島5808番地1にある史跡

山村代官屋敷
山村代官屋敷の位置(長野県内)
山村代官屋敷
長野県内の位置
施設情報
正式名称 木曾代官所
専門分野 文学美術関係資料[1]
事業主体 木曽町
開館 1971年昭和46年)9月
所在地 397-8588
長野県木曽郡木曽町福島5808番地1
位置 北緯35度51分06.7秒 東経137度41分53.5秒
外部リンク 山村代官屋敷
プロジェクト:GLAM

江戸時代の全期間、尾張藩重臣の山村甚兵衛家が代々世襲する木曾代官所であった。

特徴

木曽氏の重臣であった山村甚兵衛良勝は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属した。

千村良重ら他の木曾衆とともに、徳川秀忠の進軍に先立ち西軍が守る贄川の関を突破し、木曽谷を進軍し、西軍に占拠されていた東美濃の諸城の奪還に協力した。

木曾にあって同じく東軍に属した父・山村良候が西軍の石川貞清に敗れて犬山城に拘禁されると、木曾衆を率いて犬山城攻めに加わり、武功を挙げて父を救出した。(東濃の戦い)

慶長7年(1602年)に父が死去すると家督を継ぎ、家康より東美濃の中山道沿いの村々5700石の知行所を与えられ、江戸幕府旗本として福島関所の関守も兼ねた。

しかし元和元年(1615年)、木曾全域が尾張藩の所領となったため、幕府の旗本ではなくなり、尾張藩の直属の木曾代官となったが、引き続き幕府から福島関所の管理も委託された。

現在の敷地は旧山村家の御下屋敷の一部であり、建物と庭園からなる。

木造平屋建373平方メートルの建物は、火災で焼失したために享保8年(1723年)に再建されたものである。

庭園は木曽駒ヶ岳と永田山を借景とする池泉回遊式庭園である。

1967年昭和42年)に福島町と新開村が合併して木曽福島町が発足すると、木曽福島町は所有者の山村鉄男から土地と建物を買収し、1971年(昭和46年)9月に史跡として公開した。

建物内では山村甚兵衛家旧蔵の文学関係・美術関係資料を収集展示している。[1]

木曾代官

山村甚兵衛家は代官屋敷(木曾代官所)にて代官としての職務と、幕府管轄の福島関所の管理責任者と公儀御用の材木の伐採を兼務した。

山村甚兵衛家は給人の中から「下代官」[2]を任命し、1村または数ヶ村を支配させた。

寛文4年(1664年)に尾張藩が行った林政改革後は、木曾の山林は尾張藩の「木曾材木役所」が管轄することとなり、山村甚兵衛家の役割は、村々と山林の取り締まりに限定された。

享保年間(1716~1736年)の尾張藩の改革においては下代官が廃止されたので、それ以降の村方支配は木曾十一宿支配を兼ねていた尾張藩の寺社奉行所や、木曾代官所内の勘定所へ直接村役人を招集するか、または木曾代官所の役人が村々を巡回してこれを行なった。

木曾代官所内の勘定所は、村役人同士のコミニュティの場となるとともに、代官所の意向を村々へ伝達するための集会所となった。

利用案内

  • 開館時間:8時30分~16時30分
  • 休館日:年末年始、12月~3月の毎週木曜日(祝日の場合は翌日)

関連項目

中津川代官所 山村甚兵衛家が美濃国恵那郡内の領地を管轄するために置いた代官所。

ギャラリー

参考文献

  • 木曽福島町教育委員会『木曽福島町史 第三巻 現代編Ⅱ』木曽福島町、1983年

脚注

  1. 木曽福島町教育委員会『木曽福島町史 第三巻 現代編Ⅱ』木曽福島町、1983年、pp. 1047-1050
  2. 下代官(げだいかん)の職務は庄屋と木曾代官所の間にあって米年貢や木年貢の徴収と木年貢の下用勘定を行い木曾代官所へ納めることであった。代官所からの給与は無かったが、年貢の1.5%を口物として下付された。

外部リンク

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