山名棟豊
生涯
16世紀半ば、但馬山名氏の山名祐豊(宗詮)は、因幡国の支配をめぐり因幡山名家の山名誠通(久通)と抗争を続けていた[1]。天文15年(1546年)、橋津川合戦において山名祐豊は、因幡山名家を支援する尼子氏を破り、因幡山名家を没落させた[1]。祐豊は弟の山名豊定を実質上の守護に据え、事実上因幡国を領国化した[1]。
永禄3年(1560年)3月に山名豊定が没すると、代わりの因幡守護は立てられず[1]、祐豊の長男である山名棟豊が派遣された[1]。
備考
脚注
注釈
- 村上家の一族の者が江戸時代初期に宮本家を継いだことから同家に文書が伝わったとみられる[3]:14。
出典
- “調査研究 ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第1回)”. 鳥取県埋蔵文化財センター. 2021年11月30日閲覧。
- “鳥取)県保護文化財に5件 大山寺「不動明王坐像」など”. 朝日新聞. (2019年2月7日) 2021年11月30日閲覧。
- “宮本家文書 補足説明資料”. 2021年11月30日閲覧。
- “県史だより 因幡・伯耆の戦国武将たち(その2):西伯耆国人村上氏”. 鳥取県公文書館. 2021年11月30日閲覧。
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.