山吉久盛
略歴
応永30年(1423年)に勃発した応永の乱では、山吉氏は守護代・長尾邦景の有力被官として、守護方の中条房資らと対峙した。邦景方の内部分裂などにより、翌年には乱は一旦休止するが、その間の応永31年(1424年)、中条氏の分家金山氏分の段銭請取状に署名しているのが、久盛の初見史料である。
その後、越後は再び争乱となり、享徳3年(1454年)にまとめられた「中条秀叟(房資)記録」によれば、応永33年(1426年)、守護方の攻撃を受けながらも三条城を守りぬいた。この乱は最終的には邦景方が勝利し、山吉家の守護代から与えられた諸権利も守られた。
文安元年(1444年)、本成寺に対して打渡状を出しているほか、長尾実景から本成寺に出された遵行状の宛先として、文安3年(1446年)までその存在が史料上確認できる。
脚注
出典
- 三条市史編修委員会『三条市史』通史編 上巻、1983年
- 三条史史編修委員会『三条市史』資料編 第二巻 中世、1979年
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